わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。ヨハネ14章27節
イエス様は私たちに平和を与えました。平和は、一人一人の心の中から造られます。世界とは決して漠然としたものではなく、私たち一人ひとりよって構成されています。世界を平和にできるのは、私たち一人ひとりです。心に平和があれば、他人を攻撃することやお金のために他人を苦しめるような決断をしません。しかし、心の平和は、愛を知っている人だけが実現できるものです。真の平和は愛によって実現されます。自分の心に平和を築くことを決意することが、同じ過ちを決して繰り返さないことへの第一歩なのです。
永遠に変わらない方は、神のみです。これに対し罪に侵された人間の道徳感覚というものは如何に危ういものでしょうか。人類の歴史を概観すると、これは顕著に現れています。第一次世界大戦において、近代武器は相当に発展しており、 すでに人間が槍と盾とで戦った時代は過ぎ去っていました。「戦争をなくすための戦争」と言われた第一次世界大戦でしたが、終戦時結ばれたヴェルサイユ条約では戦勝国が一方的に、復讐ともいえるような賠償を戦敗国ドイツに求めた結果、新たな憎悪が生まれ、打倒ヴェルサイユ体制を謳うヒトラーのような人物の出現は不可避となってしまいました。
原子爆弾投下やホロコーストにみられる取り返しのつかない間違いの根本的な原因を、多くの人間は知ることがありません。罪を知る者、キリスト者だけが、その根本的な原因を知ることができます。
第二次世界大戦後、戦争防止と平和強化のため建てられた国際連合教育科学文化機構、ユネスコのユネスコ憲章前文には次の言葉があります。
「戦争は人間の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和の砦を築かなければならない。」
人の心の中の罪が問題にされない限り、人の心に平和が築かれることはなく、それゆえ戦争が止むことはないでしょう。私たちが戦争責任を他人の問題として責め立てている限り、決して真の平和が世界に訪れることはありません。戦争は人の心の中、つまり全人類の内にある罪に起源するものです。
人の世において、正義は存在するのでしょうか。世界の歴史と現状を見る限り、唯一の基準となる正しさなどは存在しません。
ヘブル人への手紙は人の在り方を描写するのに、「邪悪な良心」という言葉を用いています。罪によって汚れている人間は、そもそもの善悪の判断力が歪んでいるのです。これは人の歴史を見たときに、一目瞭然ではないでしょうか。この良心を完全な全きものにできる のは、罪の贖いを成し遂げたキリストだけでなのです。
私たちは、いつも正しいことをみつめていなければなりません。その正しさは、人の世における危うい基準ではなく、永遠に変わらない神の義です。それは人類の罪の贖いを成し遂げた愛の内に存在します。先にあげたように、確かに人の世には罪と死、 悪が存在します。しかし最後に勝つのは愛です。神は愛だからです。
神の愛の深さを知ることは、人が自らの内に潜む罪の深刻さに気付くことです。そのことによってのみ、十字架の偉大さが分かります。戦争を根本から止めることができるのは政治運動ではありません。
私たちは他者ではなくまず自分自身を変えなければなりません。永遠不変の神の愛によって他者を愛さなければなりません。人は愛によってのみ変わることができるからです。愛によって他者を変えることで、世界は神の国へと変わります。
聖書は人に生き方を問いかけます。人の世の正義は極めて危ういものであるがゆえに、私たちは永遠に変わらないものをみつめなくてはならないのです。私たちは神の義によって、罪の原理から、愛の原理へと世界を解放しなくてはなりません。私たちは、永遠不変のキリストの十字架に示された世界で最も偉大な愛によって、自分を変え、 世界を神のものへと変える使命を負っています。
愛を知っている人は戦争をしません。愛の連鎖を起こしましょう。今日、隣人を愛することによって、私たち一人ひとりの心に平和の砦を築きましょう。