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奨学金1,000万円返済記- vol.4

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リストラのあと

混乱から1か月が経った後、父親は会社を訪問販売の会社を辞めました。
おそらく自己都合退職だと思います。「辞めるときは、支店長のことも本社にFAXしてやる」と息巻いていましたが、それも結局しなかったようです。
いま、筆者が社会人になって思うことは、おそらくどちらにも非はあったのだろうと思います。無理なノルマを押し付ける上層部、それに板挟みになりパワハラする支店長、ノルマが達成できないので不正をする末端社員(父含め)の構図が浮かびます。当時は、パワハラや長時間残業は当たり前でしたから、こういうことは日本中のいたるところで発生していたことでしょう。

また、発覚したタイミングも最悪でした。筆者が中学2年生の時というのは、リーマン・ショックが発生した時期です。リーマン・ショックとは、2008年9月に発生した世界恐慌のことです。そう、世間では、リーマン・ショックの発生により空前の不景気に陥りました。これも恐らく推測ですが、リーマン・ショックで会社の業績が悪化し、それまで黙認されてきた不正をリストラの口実にしたのだと思います。

そう、つまり、父親はトカゲの尻尾きりに遭ってしまったのです。

会社を退職したあと、父はいくつかの仕事を掛け持ちすることにしたようでした。その一つが生命保険会社です。その生保の会社は全国に社員1万人を抱える大企業でした。両親はそこの保険会社の保険に加入しており、担当とも懇意にしていました。リストラに遭ったことをその担当に相談し、なんとかそこで働かせてもらえないかと頼み込んだようでした。筆者は「そんな大企業で働けるなんて凄いな」と思いました。

もうひとつが、ミキモト化粧品の販売店です。ミキモトというのは、タサキと並ぶ真珠の2大ブランドです。そのミキモトではビューティーステーションという販売代理店の登録をすることができます。ちょうどこちらも、両親の知り合いにミキモト化粧品の代理店をしているひとがいたので、相談したみたいです。こうして、自宅の玄関にミキモト化粧品の看板が取り付けられることになりました。また、商品として高級化粧品が自宅に並ぶようになりました。筆者は「そんな高級ブランドを取り扱えるなんて凄いな」と思いました。

苦悩、そして勧誘の嵐

それから、保険とミキモトの二足のわらじを生活の軸にしていきましたが、なかなか収入は軌道に乗りませんでした。両親に「仕事大丈夫そう?」と聞いても「いまはちょっとしんどいけど、そのうち軌道にのせる」という返事が返ってくるだけでした。「軌道にのせられそう」ではなく、「軌道にのせる」だったので、まあ見込みはなかったのでしょう。ただ、その心配を子供の前では見せたくなかったのだと思います。しかし、筆者はその両親の不安を敏感に感じとっていました。そして、状況はかなりまずそうということもなんとなく察していました。

ミキモトは一発逆転の希望だった

数か月が経っても、状況は改善しませんでした。しかし、両親は気丈に振舞っていました。保険とミキモト、それぞれでなんとか軌道にのせようとしていました。「何件か決めるだけで、生活安定するから」「普通に会社員するより絶対こっちのほうが儲かるから」と口癖のように言っていました。

まず、保険の方では、身近な知り合いを次々に勧誘をしていきました。近所のひとも「新しく保険屋始めたんだね」と物珍しそうに話しかけてきて、数人は入ってくれるひともいたみたいです。しかし、それ以降はあまり芳しい成果は挙げられないみたいでした。その会社は入社後の数か月は契約がゼロでも給料は出るのですが、数か月経つと成果報酬要素が強くなるようでした。そのため、継続的に契約を上げ続ける必要があるみたいでした。あとから聞いた話だと、契約がゼロだった月は給料が数万円だったこともあったようです。

そして、いよいよ契約がまずいという状況になると、父親は、手あたり次第に加入してくれそうなひとを探すようになりました。まずは、母親のパート先の同僚です。父は、「旦那が転職して保険屋になったんだけど、保険入ること検討してない?」という風に数人に聞くように指示しました。しかし、母は母で「これからもここで働くことを考えると言いづらい」と反対しました。なので、母の同僚を勧誘する方法ははやくも暗礁に乗り上げようとしていました。

すると、母が仲良くしていた同僚がちょうど辞めるという情報が入ってきました。母とその同僚は何度かランチに行ったような間柄でした。母は、よく職場の愚痴をこぼしていましたが、その愚痴を言い合う仲のようでした。父はその話を聞くと、「もう辞めるなら保険の話をしてみてくれない?」と言い出しました。筆者は唖然としました。いくらパートに影響はないといえど、せっかく築いた関係を壊してもいいのだろうか、と。母も同じで最後まで渋っていました。しかし、そんなことは言っていられない状況なのは変わりません。ついに、母は折れました。

それは、ある雨が降る休日の日でした。母はその同僚に対してLINEをします。すると、30分ほど経って「電話してもいいよ」との返事がきたようでした。母は廊下に出て電話を始めます。「あ、久しぶり~~旦那が保険屋始めたんだけど、いま検討してたりしない?見直しでもいいかなと思って話だけでも聞いてみない?」という声が聞こえてきました。でも、反応を聞いている限り、あまり芳しいものではなさそうでした。父も同じことを感じたみたいで「資料みてくれるだけでもいいから!短くてもいいから!10分くらいでも!って伝えて!!!」母も母でこのままでは生活がまずいと思ったのでしょう、必死に食い下がる様子を伺い知ることができました。

しかし、電話は切れてしまいます。「切れちゃったわ・・・」と落ち込んだ様子で帰ってきました。断ってるのにしつこくされたらそりゃ切れるに決まってます。父はそれでも藁にもすがる感じで、それはもういまにも世界の終わりが訪れそうな声で食い下がります。「電波悪かっただけかもだから掛け直して!!!」

(いや、、さすがに無理だろ・・・)と子供ながらに思いましたが、母は掛け直しました。案の定、電話はつながりません。

こうして僕らは、保険の契約の可能性を失ったことに加えて、仲良くしていた同僚も失ってしまったのでした。あの雨音と淀んだ空気は忘れることはできません。

公文の先生

筆者は、小学生の頃から学習塾の公文式に通っていました。小学生の頃は、特に目立った注目は集めていなかったのですが、小学校6年生くらいには中1の内容を先取りで学習しており余裕をもって中学に進学していました。公文の先生も、「先取りしているからついていきやすいと思う」とは言ってくれたものの、まさか筆者が学年1位を取るとまでは思っていなかったみたいです。そして、それを取り続けるとも。先生は「すごいねぇ・・・・将来有望だね!!」とべた褒めでした。筆者はそれに自信をつけて、更に高校の学習範囲まで先取りして進めていきました。教室内での立場も一目置かれる存在となり、「あの人は凄いらしい」という見方をされるようになりました。

小中学生時代に通っていた公文

そんな矢先のリストラ劇です。両親は教育に力をいれていたので、何とか通わせようとしてくれましたが、やはり入ってくる収入がない状況です。勧誘の魔の手が公文の先生にも襲い掛かりました。

父親から、「公文の先生にも頼んでみようと思う。」と言われました。
そして、こう続けます。
「○○(筆者の名前)、先生に『お父さんがお話ある』て言っておいてくれない?」筆者は、なんとも言えない不穏な気分になりました。

次に通った際、筆者は帰り際にこう言いました。
👦「先生、お父さんが先生にお話しがある、って言ってました。」
👩‍🏫「お話??どういうお話か聞いてる?」
👦「なんか、保険のお話らしいです。」
👩‍🏫「保険??とりあえずお父さんからの連絡待つね。」

そして、数日後、父親からこのように言われました。
👨‍💼「この前、ありがとな。先生に連絡したわ。」
さらに続けます。
👨‍💼「明後日木曜日の教室が始まる30分前に時間作ってもらえそう。」
筆者の通っていた公文は火曜と木曜が教室開放日でした。なので、そこだったら先生が教室にいるので、始まる30分前に時間を作ってもらったとのことでした。

うまくいくのかなあ・・・と筆者は子供ながらに感じていました。
母の同僚の反応からも、筆者は"保険の話は嫌がられる"のを肌で感じていたので、結局断られるんじゃないかなと内心思っていました。
しかし、父は「よし!しっかり契約してもらうぞ!!安いやつでいいから、て説明しようと思う」と意気込んでいました。

そして、水曜日、夜遅く電話が鳴りました。母が電話に出ます。
公文の先生からでした。
明日に保険の説明を控えていましたが、「明日は忙しいからリスケさせてほしい、都合のいい日時はまたこちらから連絡する。」とのことでした。
そう、つまりやんわりと断られたのです。

その後も筆者は公文に通い続けましたが、先生からその話題が出ることはありませんでした。父からまたお願いされるかも、とびくびくしていましたが
父からもそれ以上はないみたいでした。

筆者は、他者から拒絶されることがこんなにつらいのだと実感しました。

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