書き続けると世界の解像度が上がる

考える力というのは、語彙力と言語化能力の掛け合わせだと思う。
語彙力は知識で、言語化能力はその知識を適切に使う力だ。
語彙力は読書で培い、言語化能力は書くことで鍛えることができる。

語彙力と言語化能力というのは、自分をどのように認知するか、世界をどのように認知するかということに直結している。
語彙と言語化の限界値が、その人が考えることのできる限界値であり、その人が見える世界の限界値だ。

逆に言うと、語彙力と言語化能力が落ちれば、考える力も自ずと落ちる。これは私の経験則でもある。

社会人になってから、めっきり読書をしなくなった。必要な知識を得るために読むことはあったが、年に数冊程度で、日常的には読書をしなかった。

時間的余裕が全くなかった。
自分の思いを言語化する余裕もなくなっていった。
書くという行為もしなくなった。

すると、世界や自分の解像度がガクッと落ちた。
自分が何を考えているのか、判然としなくなった。世界がボヤけて、明確に捉えることができなくなった。
その状態に、ある種の心地よさを感じた。

たまに物を書いたり本を読んだりすると、考える勘が戻ってきて、世界や自分に対する解像度が少し上がる。それがとても苦痛だった。

解像度をある程度低くしておきたい。
言葉は悪いけど、「馬鹿は気楽で良い」と言われる、その馬鹿でいたかった。

自分というものが明瞭になればなるほど、その醜さや拙さにうんざりする。
自分を深く認識すればするほど、なんて自分勝手で愛の無い、つまらない奴だと思う。
世界というものが明瞭になればなるほど、面倒くさいことやわずらわしいことが増える。
なんて生きづらく、世知辛い世界だと思う。

世界や自分の解像度が低ければ、極端な話、何が辛いのか、何故辛いのかを言語化できない。自分の醜さや拙さを客観視できない。自分が何者なのかも分からない。
バケツに穴が空いていると気付かないまま、そこに水を注ぎ続けるようなことをする。水が全然溜まらないことに気付かず。何故溜まらないのかも考えず。それを不幸とも思わず。

それの何が良いんだ? と思われるかもしれない。
でも、世界を変える力、自分を変える力が無いなら、その方が楽だと思ってしまう。
それはつまり、白状すると、生きるのに怠惰ということだ。……いけないことだろうか?

人間は考える葦だ。それ故に不幸だ。
ただの葦なら苦痛を感じずに、ただ生きて死ぬだけなのに。きっとその方が気楽だ。いや、「気楽だ」とも感じずに、ただ生きて死ぬ。幸福もなければ不幸もない。
それで良い。それが良い。

noteを続ける限り、書くという行為を続ける限り、解像度がある程度上がることは仕方ない。

自分って、こんなこと考えてたんだ。
なんだか自分って格好悪いな。
日常の中に、やるせない事って結構多いな。
なんだか世の中って生きづらいな。

そんなふうに考える回数が増えてくる。
正直、辛い。

とは言え、物事には限度というものがあろう。
自分の格好悪さも、世界の生きづらさも、底なし沼ではない。少なくとも、私の語彙力と言語化能力の限界値が、私が認識できる限界値だ。

自分がどの程度自分勝手で、どの程度愛がなく、どの程度つまらない人間なのか。
世界はどの程度面倒くさくわずらわしいのか。
そういうことが見えてくるかもしれない。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集