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10年前、私は出産をした。子供は無脳症でした。

今日は少し重い話をします。

10年前、私は20歳でした。
初めて妊娠をし、不安はあったが嬉しかった。

当時は周期の計算などもしており、生理が少し遅れた事と、体に違和感が出たのでまずは検査薬で検査をした。 うっすらと陽性がでた。

翌日すぐに病院に行った。
12月15日。まだ袋しか見えない状態
エコー写真には黒い丸があった。
まだ早すぎて確実とは言えないからまたおいで、と言われその日は帰った。

12月22日
黒い袋が大きくなりその中に何か白い丸があった。

1月11日
袋の中の白い丸が少し大きくなっていた。

1月22日
病院へ行った時には妊娠が確実になった。

母子手帳をもらいにいった。

つわりがひどく、微かな匂いすら敏感になった。

食べ物も水分くらいしか飲めないくらいで中でも大好きなクッキーが一番ダメな食べ物になった。

一口食べただけでも戻してしまっていた。

1月25日
子供は元気に育っていた。
先生から元気に動いてますよ、って言葉に嬉しくなったのを覚えている。

そのころにはもう袋の中に赤ちゃんの体が見えた。
ここが頭~など説明をされても、あまりわからない程の形だったが、
動いているのははっきりわかった。

2月22日
つわりは相変わらずひどかったが、お腹も少し出てきてマタニティー服に切り替えた。

安定期に入った事から神社に戌の日に安産祈願へ行った。

途中、本当に少しだがピンクがかった出血があった。
不安になり病院へ電話をしたが、とりあえず安静にして様子を見ることになった。

次の検診に行く数日前 怖い夢を見た。
旦那が深夜勤務だった為、夜一人で寝ていると、急に金縛りのような現象が私に起こった。
目は開くのに体が動かない、恐怖だった。

怖さから部屋の電気を必死につけようとするが、電気の線にどうしても腕が届かない。パニックになり旦那に電話をかけようとするが、携帯は光っているのに、画面は動くのに指も動くのに電話をかけられなかった。
正確に言えばかかったが、雑音がして怖くなって慌てて切った。

怖さに耐えきれず、目をつぶりうずくまっていた。その時

急に腕を誰かにひっぱられた。

聞こえた声は 女の子の声で『一緒に行こう?』だった。

さらにパニックになり 大声で 『行かない!』と叫び腕を振りほどいたら

体が自由になった。電気もつけられた。

起きてからは生々しい現象にただ恐怖で旦那が帰ってくるまで電気をつけたまま起きていた。

朝落ち着いて、夢の中での携帯の事が気になり着信履歴を見ることに

そこには、旦那への着信履歴はなかったものの、

なぜか産婦人科からの大量の着信履歴が残っていた。
時間帯が深夜の履歴だったのと古い携帯を使っていたので、ばぐったか、と思ったが、あまりにも大量の着信だったので折り返しかける事に。

案の定、かけてません。と言われ終わったが、とても怖い夢だった。

その後

3月22日
いつものようにエコーをとりながら、先生と話しをしていると
途中で先生が黙って画面を見始めた。

『ん?……あれ?』という言葉が私の不安を一気に煽った。

先生から、『ちょっと頭が小さいかなー、もしかしたら無脳症かも……』

初めて聞く言葉に私の頭には理解が出来なかった。

最初、形成された頭が途中で退化してしまう。
へその緒がつながっている間は子供は一般的に育つ。

ただ、産んでしまうとすぐに亡くなる可能性が高すぎる。

それと出産時に子宮破裂や母体へのリスクが大きい。
産んでも子供は目も見えない。耳も聞こえない。
産んでから数時間、数分もつかもわからない。
お腹の中で育つのは育つが、継続を選んでも途中で死産になる可能性は高い。

調べると1000人に1人という確率であり得る病気らしい。

原因は不明。葉酸をとることが予防に繋がる。とあったが

私は葉酸もとっていたし、たばこも飲酒もやめていた。
散歩などをし、体も動かしていた。
生活リズムも健康そのものだった。

それでも そうなってしまった。

医師が唯一中絶を進める病気でした。

20歳でまだ先がある。万が一を考えると今回は諦めた方がいい。

20歳でまだ色々と経験不足だった私。

考えたい。とだけ先生に伝えてその日は家に帰った。
ただ、赤ちゃんが元気かどうか知りたくて行った検診。
エコーを楽しみにしていた日。

1日で色んな説明をされ、急に中絶をすすめられる。

頭が追いつく訳がない。

その後、自分の母親と一緒に薦められてセカンドオピニオンを受けたが結果は事実を更に固めた結果となりました。

産みたい。けど、産まれてすぐ消えてしまう命に向き合う自信もない。

正直、訳がわからなかった。

実家に帰り 訳もわからず泣いた。

実家には姉がいた、大人になってから姉の前で泣くことなんてなかったのに、耐えていた涙腺の糸が切れたように、ただ泣いた。

初めて姉に抱きしめられました。

後日、私は医師に言われるまま、中絶を選びました。
当時の私はもう自分で選べるような、考えがまとまるような冷静ではいられなかった。

私の時期では中期中絶となり、出産、という形での中絶でした。

入院をし、子宮口を広げる処置を始めます。

生きてきた中で1番の痛みでした。
私は痛みに強い方なのですが、それでも意識が遠のくほどの痛み。

数日それを続け、バルーンをいれ促進剤で陣痛を促します。

その日はたまたま、他の方の出産と重なり、横の部屋で出産をしている中、

私はこれから息がとまってしまった子を産む。という状況

陣痛はとても苦しくて促進剤のせいか 吐いて、うなって、と繰り返していました。

なんとも言えない感情になったのを覚えています。

助産師さんに背中をさすられながらずっと『あなたは悪くないからね、若いんだし次もあるからね』って言われていました。

助産師さんは元気づけようとしてくれていたんでしょうけど、その時はなんの励ましにもならなかった。 次って何? ってずっと思っていました。

分娩台にのり、先生から『まだ、いきまないでねー』と言われたのですが、痛さが限界で、力をいれてしまうと 破水しました。

生暖かい液が体からでるのがわかって破水した後は不思議と痛みが薄れていきました。

その後、先生と助産師さんに言われる通り いきんで、を繰り返し、出産に入りました。

子供は素直にすんなりおりてきてくれました。

本当に スルっとした感じで。

生まれた後は胎盤を出すためにお腹をものすごく押されたりしていましたが、もう、放心状態な私。

生まれたのに喜べない。だけど涙もでてこない。

先生に 『子供抱くかい?』と聞かれ、

そこで、 あ、抱かせてもらえるんだ、と 思った自分がいました。

最初で最後、生まれた子を抱っこできた時間でした。

まだ肌の色は肌色ではなく、少し赤かったけど体は出来ていて
指もきちんとありました。

頭は目から上、脳がでていたわけではなかったのですが、
やはり欠けていて、先生に言われたままの姿でした。

それでも可愛かった。可愛く思えた。

ネットなどで調べると 『グロ注意』などと出てきます。

けれど、グロくなんてない。

私みたいに途中で中絶を選んだ方、
継続を選んで出産をした方、

どちらも、どんな結果でも堂々としていいと思う。

生んだ後、子供の容姿がどんな形でも、
可愛い我が子に変わりはないと思った。

ただ生きる力が他の子より弱くなっちゃっただけ。

ごめんね、生きる上で大切な部分を作る力をあげられなくて

でも、ありがとう。私のお腹に来てくれて。

私は成長を見届けられなかった悔しさは残るけれど

自分の意志で我が子の息を止めた自分の未熟さも残るけれど

だから言える事がある。

出産は奇跡です。

10年たった今、正直、私はまだ怖いです。
妊娠をすることが。

守りたいのに守れない。そんな状況を作りたくなくて、

今でもまだ少し逃げています。

やりたい事を必死に探して、何かを探そうとするのは

色々な事に挑戦して、何かを得ようとするのは

何かをしていないと今でも落ち着かないからなのかもしれません。

けれどそれが無駄な行動になるとは思っていません。

逃げているかもしれない。けれど、それで新しく何かに気がづいたり

得るものはちゃんとたくさんあるよ。大丈夫。

私はそう思っています。

                      まるい鈴。


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