いつもの僕のシャワーの時間は
僕がシャワーを「普通」に浴びると、大体10〜15分くらい。
さっぱりした顔で外に出ると、「はやっ!ちゃんと洗ったの!?」と言われた。
「え…。早いですか…?」
「早すぎ!ちゃんと洗ってないでしょ。ちゃんと洗えてないと臭いじゃん!」
その一瞬の言葉のやりとりで僕は、相手にとって「普通にシャワーを浴びれない人」になった。
でも、これは僕にとって、「いつものシャワーの時間」。
これは、いつもどおり頭から洗って、体を洗って最後に顔を洗う「いつものシャワーの時間」のお話。
あなたのいつものシャワーの時間
僕は基本冬はお風呂で、夏はシャワーだ。
大体シャワーは10分、お風呂は考えた事はないが30〜40分くらいだろうか。
僕からしたら、お風呂に1時間入る事は「長っ!」って思うし、体から洗うののはなんか嫌だ。
でも、これは僕にとって、「いつものシャワーの時間」で、僕のシャワーの浴び方。
いつもどおり頭から洗って、体を洗って最後に顔を洗う「僕のいつものシャワーお時間」のお話。
みんなそれぞれの「お風呂の時間」がある。
爪先から洗う事も、2日に1回入る人も、お風呂がなくって銭湯に行く僕も、その人にとっては「いつものお風呂の時間」
365日シャワーの人もいるし、365日お風呂の人もいる。
そうじゃない人もいる。
「え〜、なんでシャワーじゃないの?芯からあったまらないとダメでしょ」と言う人もいる。
みんな、「それぞれのシャワーの時間」がある。
シャワーの時間だけじゃない。
起きる時間も、仕事をする時間も、癖も、お金の使い方も、鼻くそのほじり方も、考え方も「それぞれの時間・やり方」がある。
それが「その人にとっての普通」かもしれない。
あなたと僕のシャワーの時間
僕にとって、10分くらいでシャワーを浴び終わる事は「普通」である。
それが「いつもの僕のシャワーの時間」。
けど、「いつもの僕のシャワーの時間」だけをとっても、他者からみたら、それは「違う」とか「異常」とか。
時によって「障害」という言葉になる。
それっていいのかなぁって思う事が多くなった。
それは、何においてもそうであって。
人が持つ「年齢」という数だけ普通ができあがる。
だから、人がいるだけ普通がある。
誰が普通を決めたのかは知らない。けど、普通を作るのは自分。
そして、相手の普通を作るのは、相手という存在だ。
シャワーの浴び方
多様性という言葉がブームである。
でも、かなり前から人は多様だ。
多様だからこそ、シャワー1つとっても違いが生まれるわけで。
その多様という言葉とは対象にして、個人の能力や特性に「名前」をつけるようになった。
じゃないと、世の中全体が「相手の普通」を受け入れられなくなってきていたり、安心できなくなっている気がする。
だから、「誰かが決めた普通」ではない事に違和感と不安を感じた自分が、大学4年の時にあったし、自分の普通に「名前」がついた。
それは本当に多様なのか?と思うと同時に、自分ではない気がしてならなかった。
浴槽
それと同じように、相手が自分という「お風呂」に入ってきた時の為の浴槽を作る事が今必要な事なんじゃないかと思った。
人としてのキャパシティと言いたいのだが笑。
自分と相手のシャワーの時間1つとっても、「え〜!それ、おもしろいね!」って言える事が大事なんじゃないかと思う。
それはシャワーの時間だけではなく、人としてね。
そんな、シャワーを浴び忘れた今日。
浴び忘れた僕は、普通かな?
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