公共の場でのポルノの掲示についてJ・S・ミルは何と言うか?
『「表現の自由」入門』の著者のナイジェル・ウォーバートンは次のようにいいます。
ミルの『自由論』は、表現の自由をめぐる議論において、それほど重要な本なのです。
さて、公共の場でのポルノの掲示について、ミルの『自由論』の視点からはどんなことがいえるでしょうか。結論からいえば、私が思うに、ミルの『自由論』の視点からでも、公共の場でのポルノの提示の禁止は正当だということがいえます。
ミルは『自由論』にて、社会が個人に行使してよい権力の限界について論じました。ミルは次のようにいいます。
この考えは「危害原理」や「他者危害原理」と呼ばれ、自由主義の基本的な考えの1つになっています。
また、ミルは次のように言論の自由を強力に擁護しました。
なぜ、意見表明に対する強制力の行使は不当なのでしょうか。ミルは次のようにいいます。
つまり、ミルによれば、人々に意見を表明する自由があることは、その意見が真理であろうが誤謬であろうが、人類にとって利益となるのです。
一方で、ミルは最終章である第5章の「応用」にて、次のようにいいます。
つまり、ミルによれば、「公然と行うときは良俗に反しているので、他人に対する侵害の部類に入ってくる行為」を禁止することは正当なのです。
それでは、どのような行為が「公然と行うときは良俗に反しているので、他人に対する侵害の部類に入ってくる行為」に当たるのでしょうか。ミルはこの点についてこれ以上のことを述べていないので、これについては読者が考えをめぐらせるしかありません。
私が思うに、裸になることや性行為は、ミルがいう「公然と行うときは良俗に反しているので、他人に対する侵害の部類に入ってくる行為」に当たるのではないでしょうか。そのことを示すために、裸になることや性行為がもつ特徴を挙げます。
第一に、それらは、他者に危害を与える行為ではないので、先述の「危害原理」によって禁止されるべき行為ではないでしょう(複数人の間での同意のない性行為は危害に当たるでしょう)。
第二に、それらは、私的な場(オープンではない空間)で行われた場合、関係ない人々の目には入らず「他者に対する侵害」になることはありません。
第三に、しかしながら、それらは、公共の場(オープンな空間)で行われれば、関係ない人々の目に入り「他者に対する侵害」になることがありえます。実際に、裸や性行為が目に入れば、ひどく嫌な思いをする人は多いでしょう(また、私たちはそれらを子どもにむやみに見せるべきではないでしょう)。
以上の3点から、裸になることや性行為は、ミルがいう「公然と行うときは良俗に反しているので、他人に対する侵害の部類に入ってくる行為」に当たるのではないでしょうか。そうであれば、ミルの考えに従えば、公共の場での裸や性行為を禁止することは正当でしょう。
さて、公共の場での裸や性行為と、公共の場でのポルノの掲示は、程度の差はありえるとしても、同様の効果があるでしょう。なぜなら、人の裸や性行為の場面を目撃することと、人の裸や性行為の場面を描写したポルノを目撃することとの間には、それが実物であるか否かという点にしか違いはなく、何らかの重要な違いはないからです。
何かを目撃してひどく嫌な思いをするとき、それが実物であるか否かは、程度の違いはありえるとしても、何らかの重要な違いはないでしょう。例えば、もしも残虐に殺された動物の死体を見たらひどく嫌な思いをする人は多いでしょうが、そのような人の多くは残虐に殺された動物の死体の写真を見ても同じようにひどく嫌な思いをするでしょう。
先述の通り、ミルの考えに従えば、公共の場での裸や性行為を禁止することは正当でしょう。そして、公共の場での裸や性行為と、公共の場でのポルノの掲示は、程度の差はありえるとしても、同様の効果があります。したがって、ミルの考えに従えば、公共の場でのポルノの掲示を禁止することは正当でしょう。これが本稿の結論です。
私が思うに、いくらミルが言論の自由を強力に擁護したとしても、彼は公共の場でポルノを掲示することまでは擁護してくれないでしょう。
[追記]2024年8月2日、大幅に加筆修正した。