〔読書記録〕あした死ぬ幸福の王子−後編−
第5章 死の先駆的覚悟
大切な人の余命を知ったら、あなたはどうする?
もちろん、伝えるべきだ。その人が本来的に生きるために。
ほとんどの人間が死から目を逸らして生きている。死の忘却というものだ。余命のような、明確な私事の死でなければ、人間が非本来的な生き方から脱却するのは難しいだろう。
非本来的な生き方
=交換可能な、道具のような生き方
=自己の固有の存在可能性を問題としない生き方
=自分の人生とは何だったのかを問わない生き方
=死を忘却した生き方
本来的な生き方
=交換不可能な、道具ではない生き方
=自己の固有の存在可能性を問題とする生き方
=自分の人生とは何だったのかを問う生き方
=死を意識した生き方
また、非本来的な生き方に
=おしゃべりと好奇心に満ちた生き方
を追加できる。
死など忘れて、毎日楽しく生きてはいけないのか?
おしゃべりや好奇心がいけないのは、死を忘却し、自己の固有の可能性に向き合わなくなってしまうからだ。ただ、「おしゃべりをして人生を生きるのだと選択する」すなわち「自分の固有の生き方はこれなのだと判断して選ぶ」のだとしたら、やはり死を意識する必要がある。「本来的に生きる=死を意識して生きる」が定式化されている以上、死を意識せずに済まそうなんて発想はそもそもない。
今この瞬間も「死」を覚悟して生きよ
死の先駆的覚悟。つまり、「今この瞬間にでも、自分が死ぬ存在であることを自覚して生きよ」ということだ。「いつかやって来る」と言っている時点で、死とまったく向き合っていない。死は無規定であるため、「余命」や「死期を知る」ということ言葉そのものがハイデガーの哲学に反している。今、この瞬間に人間は死ぬ存在なのだという事実を真っ向から受け止めろ、という話なのだ。
第6章 良心の呼び声
「良心」がなければ、死とは向き合えない
人間が本来的に生きるためには「死の先駆的覚悟」が必要である。そして人間には「良心」があるから死の先駆的覚悟ができる。良心というよりは「負い目」といったほうがわかりやすいかもしれない。なぜ負い目を感じるのか。それは自分が悪いことをしたという自覚があり、本当はもっと善い選択、善い生き方ができたかもしれないと思うからであろう。つまり、「良心がある」と言い換えることができる。
では良心が負い目だったとして、どうひてそれが死の先駆的覚悟ができることにつながるのか?その前にそもそも、なぜ人間は負い目を感じるのか?その答えは、「人間は有限の存在である」からだ。
あなたを襲う「無力感」の正体
人間が有限性を持った存在だとすると、必ず「無力感」という感情が芽生える。この無力感が負い目を生んでいる。
人間は有限の存在である
→できないことがある
→だから無力感を覚える
→負い目を感じる
そして人間が感じる負い目の種類は、およそ以下のものがある。
①過去への負い目
②今への負い目
③未来への負い目
④他者への負い目
ここでは④他者への負い目に注目する。
人間が人間であり、有限の存在であるかぎり、「負い目」を、「無力感」を無くすことはできない。「死の先駆的覚悟」をしなさいというのは高いハードルで非日常的な行為だが、「負い目」は日常的に、いつでも起こりうる、ありふれた感情である。
何気ない日常の中で、目をそらしてはいけないもの
①良心とは、負い目を感じる心である。
②負い目とは、人間の無力さ、有限性から生じるものである。
③また、負い目は誰でもいつでも感じられる日常的なものである。
④その日常の負い目を見逃さず、向かい合うことで、「死の先駆的覚悟(本来的な生き方)」ができる。
負い目と向き合うということは、「無力さ」と向き合うということであり、「有限性」と向き合うということであり、すなわち「死」と向き合うことである。
では「負い目」と向き合うためにどうすればよいか。それは「良心の呼び声に耳を傾けよ」ということになる。ただしハイデガーは「良心の呼び声は無言だ」と言っている。つまり、内容のあることは何も言ってくれない。「良心の呼び声」は自分が「負い目のある存在」だと気づかせるために、ずっと呼びかけている。
あなたにとって、「かけがえのない存在」とは?
自己の有限性を思い知った人間は、自分の人生に対して「無力さ」や「負い目」を感じている。だが、「他者に負い目を感じる」ということに対しては、「自己の有限性」を知るだけでは説明がつかない。「他者への負い目」を感じるには、その他者も自分と同じ「有限の存在」「かけがえのない存在」だと知る必要がある。
ハイデガー哲学では死や覚悟など自分中心の深刻なキーワードが多い。このとき、自分だけが有限の存在、かけがえのない存在であるとしたら、自分の人生の意味をつくるために「他者に対して何をしても良い」ということになってしまう。だがそんな生き方には意味もなければ価値もない。だから「自己の有限性」だけでなく、「他者の有限性」「他者のかけがえのなさ」「他者への負い目」を感じて初めてハイデガー哲学は完成する。
第7章 時間(被投性と企投性)
「2つの時間」を比較する
人間の時間理解の仕方には2種類ある。
①通俗的な時間理解
②根源的な時間理解
もちろん、ハイデガーは後者である。前者は「今」という時間が、一定の速さで流れていく平坦な直線のイメージであり、これが通俗的で日常的な、いわゆる普通の時間理解だ。この場合、時間は「無限」に続いていくことになる。だが自分自身にとっての時間、という視点で考えると、まったく逆の答えになってしまう。ハイデガーの根源的な時間理解というのは、こういう視点で時間を考えていくというものだ。
過去とは、勝手に放り込まれた世界
過去について考えるとき、時計のよつに時間を考えてはいけない。つまり、単純に「すでに過ぎ去って今」として過去を捉えてはいけないということだ。あくまでも、自分自身にとって過去とはどのようなものかを考えたとき、「変えられないもの」として存在する。つまり過去とは己の「無力さ」を自分自身に突きつけるものだといえる。つまりハイデガーの時間論とは、「過去、未来、現在」を、それぞれの負い目つまり「無力さ」として理解せよという話なのだ。
自分にとって「どうにもできないこと」をハイデガーは「被投性」と表現している。つまり、自分は過去において世界に投げ込まれてしまった、というわけだ。「過去」は一方的に被ったもの、他から押し付けられたものなのだ。
未来とは、ひとつしか選べない世界
未来の負い目、無力さの根源とは、予測できない上に「ひとつの可能性しか選べない」というものだ。つまり、何が正しいかわからない状況で、たくさんの中からひとつだけ無理やり選ばされている。このことをハイデガーは「企投性」と表現している。つまり、自分は不確定な未来に向かって、自分自身を投げ入れることしかできないということだ。
過去が「被投性」で、未来が「企投性」。ようするに、過去とは「何だかよくわからないけど、えいやと投げ込まれてしまった、どうにもならないもの」であり、未来とは「何だかよくわからないのに、自分自身をえいやと投げ込むしかない、どうしようもないもの」ということになる。
現在とは、無力さを突きつけられる世界
現在に対する「負い目」「無力さ」とは何か。それはおしゃべりと好奇心に抗うことができず、その行為に逃避してしまうということだ。つまり、わかっていてもやめられない、ついついしてしまう、という「無力さ」である。人間とは、何らかの可能性を選択する世界に放り込まれ、その可能性のひとつだけ選択して生きていく存在である以上、どんな選択をするか真剣に向き合うこともできる。だがほとんどの人間はそんなことはできない。多くの人間にとって、現在という時間は、自分の思い通りにできない「無力さ」を持って存在している。
時間というものは、人間にとって「負い目(無力さ)」を作って存在しているとハイデガーは分析した。そしてそのネガティブなものから目をそむけずに向き合いなさいと言っている。
ハイデガー哲学は難解とされているが実際にはワンパターンで、良くいえば一貫性がある。
まず前提は、「人間は有限の存在である(死ぬ存在である)」ということ。この前提により人間は必ず「負い目(無力さ)」を感じる。この「負い目」から目をそらした生き方が「非本来的な生き方」であるが、ハイデガーはこの「負い目(自己の有限性)」に正面から向き合えと言う。それどころか、「自分が有限であること(自分が死ぬこと)」を先立って覚悟しろと言う。それが「死の先駆的覚悟」であり、そうした生き方を「本来的な生き方」と呼ぶ。
あなただけが選べる、たったひとつの可能性
「死の先駆的覚悟」や「本来的な生き方」つまり「自己の有限性に向かい合って生きる」というのとをしたとき、さっきまで「無力さ」とされていたそれぞれの時間の特徴をポジティブに変換していくという形で目前に現れる。
まずは未来。この無力さとは、ひとつしか選べないということだったが、これは逆に変換すれば、ひとつを選べるということだ。つまり、「自分だけの、オリジナルの可能性をひとつ選択できる」ということになる。
次に過去。この無力さとは勝手に投げ込まれた、どうにもならないものであるということだったが、これも逆に変換すれば、その状況に投げ込まれた人間は自分しかおらず、オリジナルの過去だということになる。ハイデガーはこれを「宿命」と呼んだ。
最後に現在。現在という時間において、宿命から導かれた自分固有の可能性を自らの意志で選び取り、実践する。そのとき、現在は、逃避の場ではなく、本来の人生を生きる場として現れるだろう。
人は「絶対に手に入らないもの」を求めている
「自分の人生とは何だったのか?」
「自分という存在はいったい何だったのか?」
この問いに答えを出すことは不可能だ。死ねばもう経験できない。死んで人生が終わって、人生全体が何だったのかが確定したとしても、それを経験できるものはすでにいないというわけだ。ゆえに人間は絶対に手に入らないものを求めている。だが、それが人間という存在のあり方なのだ。