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〔読書記録〕あした死ぬ幸福の王子−前編−

第1章 死の哲学者

「死とは何か?」を考える前に

ハイデガーと言えば「死とは何か?」「人間とは何か?」を問いかけた哲学者で有名だが、実際のところは、あらゆる常識的な言葉の中で、最も根源的なものを哲学のテーマとしている。それは「存在とは何か?」だ。

人間の思考の「限界」とは?

1つ目に、「存在(ある)とは何か」の問いに答えることは原理的にはできないとハイデガーは主張する。

釣り竿がある→竿がある、糸がある、針がある

これをもっと一般化して考えると、

Xがある→Aがある、Bがある、Cがある

となる。私たちは存在しているモノを部分的に分割し、その構造を明らかにすることで理解しようとする。だが、こうした説明では決して「ある」の説明にはならない。

このことは「あるとは何か?」という問いについて、とても深刻な事実を突きつけている。というのは、すべての思考、書物など、人間の説明はつまるところ「AはBである」という形式の言葉の積み重ねでできているわけだが、そうするとその形式の言葉の中に「ある」が含まれている以上、人間は決して「ある」を説明できないという結論になってしまう。

「存在」とは、思考の土台である

2つ目に、「人間は存在について語れないにもかかわらず、なぜか存在についてわかってしまっている」という不思議な事実をハイデガーは主張する。

「人間は存在について語れない」と言ってきているが、そうは言っても「存在」という言葉の意味はなんとなく理解しているはずである。

人間は存在とは何かが語れないにもかかわらず、存在の意味を理解し、存在を土台とする言語を駆使している。


ここまでを整理する。

①ハイデガーは「存在(ある)とは何か」について考えたが、原理的な問題により、それは語れるものではなかった。

②しかし、にもかかわらず、なぜか人間は「存在(ある)」について理解し、それを言葉として使っている。

第2章 現存在

「人間とは何か?」ハイデガーの答え

ハイデガーは人間のことを人間とは呼ばず、「現存在」と呼んでいる。

哲学とは、普遍的なものについて考える学問である。時代や場所、立場が変わるだけでも、まったく異なる受け取り方ができてしまう言葉は使えない。そのためハイデガーは、人間を「現存在」と書き表すことで次のように抽象化している。

『世界に投げ出されていると同時に、自らをその存在可能に向かって投げ出す存在であり、自己を現にそこにあるものとして存在そのものとして存在そのものと関わる存在』

第3章 道具体系

人間以外は、すべて「道具」である

ハイデガーは人間以外を「道具」と捉えた。そして「道具は、それ単独では存在できない」と言い、外部の目的や他の道具たちとの関わりがあってはじめて道具として存在できるとした。

道具という存在は何らかの目的に対して、道具同士の網の目のような繋がりをもっている。この「ある目的」における道具同士の繋がりの関係性をハイデガーは「道具連関」(=道具体系)と名付けた。

ここで大事なのは、人間にとって人間以外のモノは、すべて「道具」であり、それゆえ必ず何らかの「道具体系」に位置付けられているということだ。これは逆に言えば、道具体系に位置付けられない道具、つまり「単独の道具」は存在しないということになる。

そして自分から見て他の人間たちも道具ということになる。自分以外の人間も何らかの目的のために存在する道具にすぎない。

では、人間も「道具」なのか?

ただ、世界においてあらゆるモノは道具だが、自分だけは道具ではなく特別な存在である。
道具が道具として存在できる目的は連鎖しており、「何のためか」と無限に目的を遡った先には「自分自身」があるからだ。つまり、世界のあらゆるモノは、「自分」という究極の目的のために道具として現れている。

第4章 本来的生き方

多くの人が「非本来的」に生きている

ハイデガーが考える人間の本質とは何か?それは…

『人間とは自己の固有の存在可能性を問題とする存在である』

である。もう少しわかりやすく言い換えると、

『人間とは自分がどんな存在であるかを問いかける存在だ』

人間は本来、周囲のモノを道具として見る存在である。モノを「道具として見る」ということは、言い換えれば「モノの可能性を問いかける行為」と言える。つまり、人間の本質は次のように言い換えられる。

「人間は周囲のモノの可能性を問いかける存在である」

そして「道具として見る」という人間の行為には、他の動物にはない、人間固有だと言える特徴が含まれている。それは、「モノを道具として見る」というその視線を「自分自身にも向けてしまう」というところだ。つまり人間は自分自身の可能性を問いかけ、「自分が何であるか?」を選択できる生き物なのだ。

「他者の視線」で人生を決めていないか?

「他者の視線」は、私自身に向けた「私の視線」を容易にかき消してしまう。しかし「世間」すなわち「他者の視線」による自己規定はすべて間違っていると言える。人間は常に周囲のモノを「道具」として見ているのだ。そして自分自身は、道具体系の根源であり、決して「道具」ではない。

つまり、

①世間(他の人間)は、私を道具として見る。

②しかし、私は道具ではない。むしろ道具体系の目的そのものであり、交換不可能な、かけがえのない存在である。

という構造であるから、「世間」の言うことは原理的に考えて必ず間違っている。

私を道具扱いする「他者の視線」によって、自分の可能性(私が何であるか)を決めさせる生き方なんてのは、もちろん「非本来的な生き方」である。

死が持つ5つの特徴

死には他者の視線をはねのけるだけの大きな力がある。ハイデガーは死という事象について分析し、それには5つの特徴があると述べている。

①確実性=必ず死ぬ
②無規定性=いつ死ぬかわからない
③追い越し不可性=死んだら終わり
④没交渉性=死ねば無関係
⑤固有性=死は代理不可能

死がもたらす「思いがけない贈り物」とは?

④の「死ねば無関係」と⑤の「死は代理不可能」があるとき、自分自身に道具性は成立するだろうか?

この世のものはすべて道具として現れており、それらは相互に関係性を持っている。他の道具と関係しない「単独の道具」というものは存在できない。死は、この関係性の糸を断ち切ってくれる。死によって他との関係性が断ち切られて自分自身が単独になれば、自分はもはや道具ではなくなる。

「すべての道具は交換可能なものである」と言えるため、「交換可能でないものは道具ではない」と言える。死において「代理不可能」とは、すなわち「交換不可能」ということ。つまり、自分が道具でなくなったことが明らかになる。


仮に自分自身のを交換可能な道具的存在だと思い込んでいたとしたら、「他者の視線(世間)」は相変わらず無視できるものではないだろう。なぜなら、道具としての存在意義を規定するのが「他者の視線」であるからだ。賢い人に思われたい、有能な人に思われたい、など。自分がそういう機能を持った有益な道具であることを証明して安心や自信を得るためにも、「他者の視線」による承認は重要であり、それこそ生殺与奪権を持っているかのような強力な力を持つ。だが、死においては、自己の道具性が破綻する。まさにその瞬間、「他者の視線」は影響力を失い、人間は本来のあり方について問いかけ始める。

今まで「自分は道具」だとぼんやり思っていたのに、死によって突然、「道具ではない」と明らかになった。すると、「自分とはどういう存在なのか?」という「存在そのものへの疑問」もしくは「今までの生き方ついいての疑問」が湧いてくる。

本来人間という存在は、この問いに答えるために、この世に生まれ、今まで生きてきたのではないだろうか?

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