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【気まぐれコラム】のほほんとのーととほんと|月刊まーる編集長@石垣島|『長い夜を持っている』

父の症候群は、超記憶力に分類される。写真記憶の極端な一例に属す。基本的に一目見たものは忘れられない。昨日の食卓も、一年前も、十年前もみな同じ鮮やかさを伴い蘇り、自分が一体今現在どの風景の中にいるのか、混乱することが多々起こる。父の幻視力は常識を超えて強力であり、目の前にある風景に記憶の風景を上書きし、自分自身を騙してしまう。ほぼ父の人生とは、そんな虚実の集合体から、当座のための現実を抽出することに費やされていた。

『長い夜を持っている』円城塔

僕たちは、"鮮やかさ"をもって距離を測る。

空間

最たるものは、視覚を用いた距離感覚である。
遠くに見えるヤラブ並木のよりも、すぐ樹上に揺れるデイゴの葉がくっきりと、鮮明に見える。だから、あのヤラブよりも、このデイゴの方が、僕の近くにあるとわかる。

「近くの木の方が大きく見えるからデイゴが近くにあるとわかるだけで、それは、鮮やかさとは関係のない話だろう」という声もあるかもしれないが、おそらくそれは違う。

"このデイゴ"の木の10倍遠くに10倍大きなデイゴの木があって、どちらも寸分狂いなく同じ大きさに見えたとしても、きっと、どちらが"このデイゴ"で、"あのデイゴ"なのか、僕たちは判断することができる。

たぶん、僕と"あのデイゴ"の間に、"さえぎるもの"があるからだ。
それは、空気であったり、塵であったり、雨粒であったりする。
僕と"あのデイゴ"の間に、空気や、塵や、雨粒が立ちはだかることによって、大きな"あのデイゴ"の姿は、僕から見ると少し隠され、ぼやかされる。
それら"さえぎるもの"のはたらきによって増減する"鮮やかさ"をもって、僕たちは距離を測る。

時間

視覚によって測られるのは空間的な距離だが、冒頭の引用『長い夜を持っている』で描かれるのは、時間的な距離である。

超記憶を持つ"父"は、全ての記憶を等しく鮮明に記憶する。

全ての記憶は等しい鮮やかさを持っている、つまり、そこには"さえぎるもの"がない。結果、"父"は時間的な距離感を失い、過去と今の区別がつかない世界を生きる。

「忘れる」ということに、僕たちはネガティブな印象を抱きがちだ。
経験した出来事に感じた愛おしさを形容するために「忘れたくない」とか、「絶対忘れない」といった表現を使うこともしばしばだ。

しかし、"父"の苦難を覗きみれば、"忘却力"というものが、時間的な距離感を保つために欠かせない"さえぎるもの"であることがわかる。
何かを忘れることがなければ、記憶が色褪せることがなければ、今と昨日と一年前と十年前が区別なく混ざり合う。順序も因果も認識しがたくなり、「十年前も、昨日も、今日も、自分は途切れることなく自分である」という実感を持つことさえも難しくなる。

"忘却力"の程度や、それがはたらきやすい対象は、それぞれに異なっている。(人の顔と名前をすぐ忘れる。人の誕生日を覚えているのが得意。最近のことは忘れるのに、子供の頃のなんでもない会話を忘れずにいる。など)
つまり僕たちは、それぞれのペースで、それぞれのやり方で忘れることで、それぞれの時間感覚を生きている。

心間

僕たちは、空間については空気や塵や雨粒を、時間については忘却力を、"さえぎるもの"とすることで、"鮮やかさ"によって距離を測る。

では、誰かと誰かの"心の距離"はどうだろう。(いいネーミングが浮かばないので、暫定的にこれを"心間的な"距離とでも呼ぶことにする)

"鮮やかさ"、"さえぎるもの"は、心の距離をも測る助けになってくれるだろうか。

心間において、"鮮やかさ"とはなんだろうか。
それはおそらく、「(内面を含む)相手の姿がくっきり見えている度合い」のようなものだろうと思う。

では、その鮮やかさを棄損する"さえぎるもの"とはなんだろうか。
それは、ベタな言い回しになるが「先入観、色眼鏡、バイアス」なのかもしれないし、要は「無知」ということなのかもしれない。

そしてこういった心間的な"さえぎるもの"が空間、時間におけるそれと異なっているのは、「自分の思いや誰かの助力で割となんとかなる」という点ではないだろうか。

つまり、心間的な距離は唯一、"自分の思いや誰かの助力で割となんとかなるもの"によって測られ、であるが故に、その距離は思いや助力によって縮めることができる。(もちろん、広げることも。)

『月刊まーる』創刊1周年によせて

「自分の思いや誰かの助力で割となんとかなる」ということは、裏を返せば、「思いや助力がなければ、ちょっと難しいかもしれない」ということだ。

僕たちは、知らず知らずのうちに、誰かとの間に"さえぎるもの"を増やし、勝手に「距離が遠い」「縁のない人」と思い込んでやしないだろうか。

1年前に【創刊にあたって】を書かれた初代編集長・三宅一道さんも、そんなことを考えていたのではないだろうか。と、勝手に想像する。

『月刊まーる』を含むWebマガジンというのは、鮮やかなメディアだ。
遠くの誰かが書いたものだからといって、その文字が霞んで見えたりはしないし、ずっと過去に誰かが記したものだからといって、ところどころ虫食い状態になったり、その文字が色褪せたりすることもない。(これらは「文字」や「言葉」そのものの性質でもあるが、やはりアクセスの容易さや耐久性という点で、Webマガジンは特筆に値する。と僕は思う。)

いわば、空間的、時間的な距離を超越しうるメディアだ。
名前も顔も知らなかった誰かの過去を覗き見したり、無二の親友が過去に考えていた無謀なアイデアを掘り当てることだって(もしかしたら)できる。

『月刊まーる』がそんな特長を持つメディアであるからこそ、『月刊まーる』創刊時には、「コミュニティーと価値観を越えて繋がる」という、まさに心間的な課題を見据えたスローガンが掲げられたのであろうと(これまた勝手に)想像する。

一道さんのもと、1年目の『月刊まーる』が信じてきたものが「"越境"に対する助力が可能である」ことであったのならば、2年目の『月刊まーる』の歩みとして、「"越境"はより気軽なものとなれる」ことを信じたい。

空間、時間と違って、心間的な距離は、思いや助力で伸び縮みさせることが可能である。とするならば、ちょっと気楽に"越境"してみてもいいはずだ。
(あっ、違うな!と火傷しそうになったなら、さらりと通り抜ける、あるいは引き返してしまえば良い。)

読んだり書いたりしているうちに境を越えて出会うのは、気の合う偏狭者だったり、刺激的な辺境者だったり、昔の自分だったりするかもしれない。

きっとみんな、石垣島・八重山という同じ場所で、それぞれのリズムで、時々心を重ねあって生きている。

そんな"距離感"を表現し、後押しするために、2年目の『月刊まーる』に、何ができるだろうか。


冒頭の引用『長い夜を持っている』は、初代編集長の三宅一道さんが、まだ出会って間もない僕(二代目編集長・佐藤)に向けて、「メチャクチャおすすめの本ですよ!!」と、紹介してくれた本に収録されていた物語です。

"超記憶"がつくる時間感覚のワケのわからなさにガツンと頭を殴られ、ぼんやりと(あるいはうっとりと?)、一気に読み切ったことを覚えています。

一道さんとの出会いの本に始まり、一道さんの言葉、バトンを受けて結ぶこの散文を、一道さんへの感謝と、新たな挑戦へのエールとして受け取っていただければ幸いです。

二代目編集長・佐藤


▼面白い本なので、よろしければぜひ。


▼『月刊まーる』4月号、ぜひご一読ください!


この記事を書いた人

佐藤仁
『月刊まーる』2代目編集長。
月刊まーる以外のお仕事は、グラフィックやサービスのデザインなど。
私設図書館「みちくさ文庫」運営(現在リニューアルオープンの準備中)


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