誰だって傲慢さと善良さをもっている。
「傲慢と善良」一見、正反対の要素に見えて、おそらくどんな人間ももっている。
意識下にはないだけで、きっと誰にでも経験のあることだと気付かされた。
私が自意識過剰なんだな、と思うけれど、そのときの自分にはとてもとても大きなことで押し潰されそうなこともある。
私にとっては、中学校時代の人間関係や職場の人間関係がそうだった。そう、終わってみれば他愛もないのだ。渦中にいるときは俯瞰できない。確実に私の気持ちを蝕んでいって、暗くさせる。そんなかんじだ。
それでも、その時に適切に抜け出すことなんてできない。
でも、渦中から外れれば、なんであんなことで、と思ってしまう主人公にも悲しいくらい共感できた。だって、所詮みんな他人だもの。
誰も自分の人生に責任なんてとってくれないし、この情報過多な社会では、本当に自分の意思があって物事を選んでいるかなんて誰にもわからない。
自分が正解だと思うものを自分で正解にしていく。きっとそんな感覚の方が近いんじゃないかとも思う。
この作品を読んで、今まで言語化できなかったものが見えた気がする。
東京には、ハイブランドというものが数多に目に入ってくる。それを身に付けることも見聞きすることも多い。
けれど、仙台を始めとする地方都市にはいくつかのブランドはあるといえども、意思をもって買いに行こうとしなければ行かないような場所にある。
詰まるところ、私は所詮、単純にハイブランドと呼ばれるものと出会う機会が多いから、欲しくなってしまっているのだと思った。というか、身に付けることが常識だと思ってしまっているのだ。それは自分の意思で買ったものではない気がする。社会人になって、お給料も入るようになって手の届く範囲にあるから買えてしまう。だから満たされない。
だから、渇きを自分で潤せないんだと。
大学生くらいまでは、渇きを自分で満たせていた、というか生きることに一生懸命で渇きを覚えることもなかった。
お金もないし、ーーーーでも、お金くらいしかないものはなかった。あとは、全部あったように感じている。と言っても、お金がないことの惨めさやしんどさは、人より多く味わっていると思う。だから、いまだに執着してしまうことがあるけれど。
そうは言っても、私にはたくさんの時間があった。
そして、私は一度死にかけた後だった。
死にかけの人は、実は強い。自分の生に固執しているから。自分がふとした瞬間、いなくなってしまうということを身近に感じたからこそ、もう全てがどうでもよくなるのだ。ある意味、投げやりにも似ている強さ。
だから人のことなんてなりふり構っていられなくて、自分のことを取り繕う余裕がないくらいには必死に生きていた。そうしたら、ある程度ありのままの私でもいいと言って仲良くしてくれる人もできた。
「愛される努力もしていないのに、ありのままの自分を愛してほしいと思うなんて傲慢だ」と言う表現が作中にあった。
半分同意、半分反対。これは私の傲慢だ。
けれど、どんなに取り繕って、頑張って好きになってもらった私なんて、所詮私ではないのだ。愛される努力の方向にもよるが、相手ありきの愛される努力なんて、価値は低いのかもな、と思う。
それでも私はありのままの私を人に受け入れてほしいし、愛してほしい。
それは、人としてのごくありふれた欲求だ。
そんな欲求に気付かされた一冊だった。
やっぱり、辻村深月の解像度はすごい。