芸術定義論:何を芸術作品と呼べるのか?
お疲れ様です。まるです。
本日は芸術の定義について、分析美学の主要な議論を眺めていきたいと思います。
何を芸術作品と呼べるのか
世の中にはさまざまな種類の「芸術作品」と呼ばれるものがあります。
そして芸術作品の中には、誰もが「これは芸術だ」と納得するようなものから、「これは本当に芸術なのか?」と疑問に思うようなものまでさまざまなものがあります。
以下で、いくつか例を見てみましょう。次の絵画は印象派の画家、ルノワールの描いた作品です。
印象派の作品は、描かれた当時は従来作品と比べてテーマや技法等に大きな差があり、あまり「芸術」として受け入れられはしませんでした。とはいうものの、現在の私たちからすれば、いわゆる王道の絵画、王道の「芸術」といった作品と感じられるのではないでしょうか。
続いての作品はダダイズムを代表する作家、デュシャンの作品「泉」です。
この作品は、その辺で売っていた男性用の小便器を横に倒してサインをしたものに、泉というタイトルをつけた作品です。
知らない人から見れば「これって芸術作品なの?」という印象を抱かせる作品ではありますが、現在、多くの批評家からこの作品は「芸術作品」として捉えられ、ダダイズムやコンセプチュアル・アートといったジャンルの文脈で高く評価されています。
最後に例示するのは、現代アート作家のティラバーニャによるパフォーマンス・アート「パッタイ」の光景を収めた写真です。
写真の中で、料理を振る舞う人と受け取る人がいるのがお分かりいただけますでしょうか。この作品で、作家であるティラバーニャがパッタイというタイ風皿うどんを調理して客に振る舞う、というパフォーマンスを「芸術」として行いました。「これは芸術ではなく、ただの調理では?」と疑問にもたれる方も多いかと思いますが、このパフォーマンスはリレーショナルアートというジャンルにおいて非常に重要な位置を占める作品となっています。
この他にも、一見何が何だかわからないような作品が、いわゆる「芸術」とみなされている例は少なくありません。全く物語に因果性がなく、夢の世界を表現したような、ダリによるカルト映画「アンダルシアの犬」、役者も台詞も何もない上映時間30秒のベケットによる演劇脚本「息」、演奏者が一切演奏しない、ジョン・ケージによる楽曲「4分33秒」などは、いずれも批評家によって「芸術作品」として高く評価されています。
こうしてみると、芸術とはなんでもありに見えるかもしれません。ところが私たちの生きる世界には、一般には「芸術」と呼ばれることのないものは数多く存在しており、「芸術」か「芸術でないか」の間には何か境界があるように感じられます。例えば、デュシャンがサインをした便器は芸術作品として評価されていますが、あなたが家の便器にサインをしてもそれは芸術をしては認められ難いことでしょう。ティラバーニャがタイ風皿うどんをふるまったことはリレーショナル・アートの代表作品として認められていますが、あなたが家でカレーを作っても、おそらくそれは芸術ではありません。
では、果たして「芸術」と「芸術でないもの」を分けるルールは一体なんなのでしょうか。言い換えると、芸術の定義なるものは一体どのように決めることが出来るのでしょう。この問題は、主に芸術哲学や分析美学と呼ばれる学問分野で長らく議論されてきました。
この記事の以下の章では、そのような学問分野では具体的にどのような芸術の定義の例が提示されてきたのか見ていきながら、その理解を深めていきたいと思います。
単純機能説
まず最も古典的な定義として、作品のある一つの特徴について注目し、ある一定の基準を満たしているのなら芸術として見なす、という定義の仕方があります。「作品が現実世界の何かを模倣している時に芸術とみなす(模倣説)」「作品が芸術家の情動を表現しているときに芸術とみなす(表現説)」「作品がある形式に沿って制作されているときに芸術とみなす(形式説)」といった具合です。これらは作品の一つの特徴を抜き出して芸術かどうかを定義する点で共通しており、まとめて単純機能説と呼ばれます。
これらの定義は芸術かどうかを簡単に表すことができますが、定義が簡潔すぎるが故に、しばしば我々が実際に芸術と呼んでいるものと定義との間にズレが生じることがあります。例えば、家電の取扱説明書に書いてある図は現実を模倣していますが、芸術と呼ぶことはありません。人間の表情や身振り手振りはそれ自体は人間の感情を表現していますが、それ単独で芸術とは呼ばれないでしょう。自然に咲いている花や、家で使う家具は、一定の形式的特徴を持っていますが、やはり芸術とは呼ばれないのです。
美的機能説
単純機能説の中でも、特に作品の美しさ・美的性質に注目した定義を美的機能説と呼びます。なるほど確かに、芸術は時に美術という言葉と同じ意味で使われることがあり、また私たちが通常「芸術」と言われて思い浮かべる絵画や彫刻は、どれも美しさを感じさせる作品が多いことでしょう。端的に芸術を定義するには、「美的性質」への注目は重要なように思えます。
しかしこの美的性質にも、多くの反例が挙げられています。記事の最初に示したデュシャンの「泉」は、ただの便器であり、美しいとは言い難いものです。他にも、ダダイズムの作品には雪かきショベルやボトル棚を用いたものがあり、むしろ芸術と美的なもののあいだに必然的な関係がないことを問うという観念そのものが作品に組み込まれているようにも思われます。また、きれいに手入れされた芝生やデザイン性の良い商業製品は、美しさを感じさせるものではあるものの、芸術作品とは言い難いでしょう。
美的機能説は他の単純機能説に比較すると多くの議論が交わされてきましたが、上記の反例のように「美しくない芸術作品を説明できない」ことと「美しいが芸術作品でないものを説明できない」ことの二つが大きなデメリットとして挙げられます。
制度説
芸術の定義を、芸術史や芸術理論、芸術制度と紐づけて説明する方法は、まとめて制度説と呼ばれます。制度説を唱える提唱者の中でも、ダントーとディッキーの二名は代表的です。
ダントーの理論から見ていきましょう。ダントーは芸術作品と芸術作品でないものは、知覚的には判別不可能であると主張しています。具体的に言えば、デュシャンがサインを書いた便器と、あなたがサインを書いた便器では、どちらも視覚的には同じようなものであり、それだけでは芸術かどうかを判別できない、と提唱するのです。では彼にとって、どのようなものが芸術の定義に重要な役割を果たすのでしょうか。そこで登場するのが、芸術史と芸術理論への紐付けです。芸術作品はつねに芸術史の中の一つの文脈に位置づけられており、また芸術作品はその存在を理論に依存させているのだ、とダントーは主張するわけです。
それでは、芸術理論や芸術史によって作られる芸術の一連の環境は、どのように作られているのでしょうか。それは芸術作品を展示するギャラリーや美術館、それを芸術として世に広めていく批評家やジャーナリズムといった、一定の社会制度に他なりません。この点に着目し、芸術の定義に織り込もうとしたのがディッキーです。ディッキーはまず、芸術を取り巻く社会制度について考察をします。この社会制度を構成するメンバーは、芸術家やプロデューサー、キュレーター、批評家、ジャーナリスト、芸術史家や芸術理論家や芸術哲学者、美学者、美術館や劇場、さらには芸術に関心を持ち、自分のことを芸術の社会制度の一員とみなす全ての人を含みます。そしてこの社会制度のメンバーが、ある作品に対して「この作品は芸術作品だ」という称号を授与させることによって、作品は芸術作品になる、というのがディッキーの考え方です。この考え方は国王によるナイトの称号授与、裁判官による有罪宣告、選挙管理委員会による当選の確定宣告、教授会による博士号の授与など、芸術以外の社会制度にも広く見られます。それを芸術の定義にも適用しようというわけです。
ダントーやディッキーは、芸術作品を取り巻く芸術史や芸術理論、社会制度によって構成される環境をアートワールドと呼びました。つまり制度説とは、芸術を定義するにあたって、このアートワールドとの関連性を重視する定義の仕方だということができます。
この定義の批判としてよく挙げられるのは、「そもそものアートワールドの定義をどうすれば良いか」という点です。確かに芸術作品が芸術の地位を得るためには、アートワールドとの関わりは重要であるように思えます。一方で、歴史や理論、社会制度により何かが定義される、という枠組みは芸術以外の場面でもしばしば見られることです。例えば、観光局から発行された公式の旅行パンフレットは、ある特定の場所に、鑑賞候補の地位を与えます。これは社会制度による身分授与に他なりません。となると、アートワールドと観光局はどちらも同じ身分授与の制度を持つわけですが、一方は作品が芸術であることを保証するのに対し、もう一方は単に観光地の身分を与えるわけで、特段芸術作品としての身分を保証するわけではないわけです。この差を説明するには、アートワールドと観光局を分けるものが何か、すなわちアートワールドを特徴づける定義について詳しく言及する必要があるのですが、ダントーやディッキーはその点について明確に答えられていません。つまるところ、制度説は芸術の定義をアートワールドの定義の問題にすり替えているだけはないか、というのが制度説に対する主な批判です。
歴史説
ある芸術作品は、先行する芸術作品となんらかの関係性を持つものとして定義できるのではないか、という主張が歴史説です。代表的な提唱者としてはレヴィンソンが挙げられます。
歴史説による芸術の定義は、数学で言うところの帰納法とよく類似しています。まず初め、古代に「最初の芸術」なるものが誕生し、この最初の芸術と何かしらの関係性を持つ作品が第二世代の芸術として定義されます。同じように第三世代、第四世代の芸術が次々と定義されていき、今日の芸術の定義につながっていく、という仕組みです。
歴史説の批判としては、「先行する芸術作品とのなんらかの関係性」というのが具体性を欠くという点です。個々の芸術作品についてはこの関係性を具体的に特定することができるかもしれませんが、この関係性は作品ごとに、また歴史的に変化するものであり、一般化できるものではありません。というのも、もし一般化できるのであれば、そもそもこのような回りくどい方法で芸術を定義する必要がないからです。このような意味で、特定の具体的な芸術作品がなぜ芸術と呼ばれるのかを説明するために歴史説は有効かもしれませんが、一方で歴史説を用いて芸術全体に対して統一的な定義を打ち出すことはできないのです。
家族的類似性
家族的類似性の考え方では、そもそも芸術を定義するにあたって統一的な定義を打ち出すことは要求されません。ある作品が芸術であるのは、その作品の性質のいくつかが他の芸術作品の性質と同じであることに起因すると考えます。例えば、すでに一般的に認められている芸術作品Xが性質a,b,cを持つとします。ここで、ある作品Yは性質c,d,eを持ち、作品Zは性質e,f,gを持つとします。家族的類似性の考えに従うと、YはXと性質cを共有することで芸術作品となり、ZはYと性質eを共有することで芸術作品となります。作品Xと作品Zの性質に共通点はなく、その意味で統一的な定義を打ち出してはいませんが、作品Yを媒介することによって、作品Xと共通点を持たない作品Zも芸術作品として認められる、というわけです。
この考えを提唱する人は、芸術の定義は何かということを考えると言うよりは、そもそも芸術は定義できないのではないか、という立場に基づいている人も多くいます。そのような考え方は反本質主義と呼ばれます。
クラスター説
家族的類似性の精神を受け継ぐ芸術の定義のアプローチが、ゴートによるクラスター説です。クラスター説では、ある一つの特徴で芸術を定義するのではなく、複数の性質が芸術作品の定義に寄与すると考えます。例えばゴートが提唱する性質は以下の十項目です。
ポジティブな美的性質をもつこと
情動の表現であること
知的に挑戦的であること
形式的に複雑かつ一貫性があること
複雑な意味を伝達する能力があること
個人的な観点を提示していること
創造的想像力の行使であること
高度な技術の所産であるような人工物ないしパフォーマンスであること
確立されている芸術形式に属していること
芸術作品を作ろうという意図の産物であること
この性質のうち、芸術作品は全てを満たす必要はなく、ある一定数以上の性質を満たしているものを芸術作品と定義します。例えば上述した性質のうち5項目以上を満たした作品を芸術作品と定義する場合、性質1~5を満たす芸術作品と、性質6~10を満たす芸術作品では、共通点はないもののどちらも芸術作品として定義されることになります。
上記の十項目はあくまでゴートによる芸術作品を特徴づける性質の例であり、この十項目自体がクラスター説にとって重要なわけではありません。重要なのは、芸術の定義には複数の性質が寄与しており、一定数の性質が満たされたときに作品が芸術として認められるという一連の流れです。そのため、上記の十項目はより適切な性質が発見されれば順次追加や削除、置き換えが認められています。
終わりに
以上、今回の記事では芸術の定義に関して、よく知られている説を紹介していきました。
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それでは、最後までお付き合いくださりありがとうございました。