詩の読み方について
教えを垂れるほど読み方をしらない。先日、萩原朔太郎賞を受賞した杉本真維子の詩集を注文して、それとはべつの『裾花』を、とってしばらく読んでみていると、詩がわたしに及ぼす影響を思い出していた。
この詩人の作品の言葉遣いはよくなれた詩の印象にちかい。もっと分かりやすく書くこともおそらくできないわけではない。ただ、それだと取りこぼしてしまう速度がある。このことば運びが実際のそのとき生じた思念の速度に一致するのだ。
往々に説明なくはじまるのが詩なので、冒頭はたいてい不可解にことばが連なっている。読む者を想定しそれの背景を前後でおしえると、説明的ということになる。詩が状況を説明しないのは、状況におかれたわたしたちが、それを自らに説明することなく、ただ感動(思念を動かす、結びつける)しているのとまったく一致している。詩を読むとは詩人という他者へと体することだ。
詩は既存の語用や文法に従うとは限らないので(それは他人に伝達する目的を負わされた抑制的なことばの使用だから)、あらゆる語も語のつながりも解釈をしりぞける。「見せないことを選んだ果実」は存在しないということかもしれないし、しかしすぐ「種を」とくるので果実が包みこんで種を見えないようにしているとも取れる。どちらとも言えそうに思うのは、改行による一瞬の間によって行のなかで意味を完結させようと読んでしまうためだ。
すでにその存在があやしい果実の種が、こんどは「ながい袋」の闇にふたたびかくされる。「姉、いもうと、と/だんだん幼くなっていって」は三姉妹を思わせ、時間を逆行する。次女としてある現在から、妹が生まれて姉になったときへ、そしてさきに生まれていた姉がある生まれたとき妹として生まれた主体がいて「だんだん幼くなっていく」と、死の反対にある未生へと無化する自己へと「手を、合わせている」。
そう読むこともできる。すると「見えないことを選んだ果実」と主体は一致して、ふたたび無である「ながい袋」へと向かう死と同等の無である未生が一致すると読んでしまったわたしがいてもいいだろう。さらにここに性交のイメージも重なってくるが、わたしはこれを比喩といってしまわないようにしている。比喩というのは、そこに優劣とか主従とか、実在と虚構といった落差の生じることばだ。しかしこれら重なりをなすイメージのすべては均等に意味づけあっている。そうした意味づけの場を与えたものこそ詩人がはたと遭遇したひとつの状況だが、状況に探偵趣味を燃やしたり、なぞがあると思うことは詩にとってあまり意味がない。重要なのは詩がその速度でしか語れないイメージの連動や重ね合わせについて語ったというところにある。詩のどこにもなぞはない、すべては明確に記述されている。
詩は他者を生きるというひとつの体験そのものであり、読者にとってはそれこそが状況である。詩は物のようにあるときとつぜん喋りだし、そうでないときは沈黙している。おなじ一篇の詩はどこに転がすかによって、すなわちどの状況や心境のあるときに読むかによって多面的な意味を結実させる。それはたぶん詩人に詩を書かせたものとは違うものだが、誤読が読者に与えたものに意味がないのでもなく、また他者でありつづける詩が折りにふれ読み返させる魅力であり、そのたびに詩は別の顔をしているものだ。