自助・共助・公助の使い分け②

自民党次期総裁に菅さんが案の定選ばれた。

菅さんの根本政策(または理念?)、かつ、今激論を読んでいるのが表題の通り「自助・共助・公助」です。今回はここの論点整理をTwitterの投稿中心にやっていきたいなと思います。

と、その前に、「自助・共助・公助」の由来がどこにあるかを簡単に調べたのでそれを共有していこうと思います。

そもそもの由来は、こちら↓のリンクに詳しく書いてありますが僕の方からも。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/suirikagaku/62/4/62_100/_pdf

米沢藩第9代藩主の上杉鷹山が掲げたのが最初だと言われています。

藩主とは,国家すなわち藩と人民を私有するものではなく,民の父母として
つくす使命がある。しかし,それは決して民を甘やかすことではない。
そして鷹山は,民の父母としての根本方針を次の「三助」とした。
自ら助ける,すなわち「自助」
近隣社会が互いに助け合う,「互助」
藩政府が手を差し伸べる,「扶助」

ではそれぞれが具体的にどうだったかを洗い出していきましょう。(とはいっても全部引用だけどね…)

 「自助」のとりくみとして,鷹山は米作以外の殖産興業を積極的に進めた。(中略)藩士たちにも,自宅の庭でこれらの作物(寒冷地に適した作物)を植え育てることを命じた。武士に百姓の真似をさせるのかと,強い反発もあったが,鷹山自ら率先して,城中で植樹をおこなってみせた。やがて,鷹山の改革に共鳴して,下級武士たちの中からは,自ら荒れ地を開墾して,新田開発に取り組む人々も出てきた。(中略)米沢城外の松川にかかる福田橋は,下級武士たちが無料奉仕で大修理をおこなった。江戸から帰ってきた鷹山は,修理が終わった橋とそこに集まっていた武士たちを見て,馬から降り,「おまえたちの汗とあぶらがしみこんでいる橋を,とうてい馬に乗っては渡れぬ」と言って,この橋を歩いて渡った。

 鷹山は,武士たちが自助の精神から,さらに進んで,「農民や町人のために」という互助の精神を実践しはじめたのを何よりも喜んだのである。

 「互助」の仕組みとして,農民には,五人組,十人組,一村の単位で,それぞれ組合を作り,互いに助け合うことを命じた。特に,孤児,孤老,障害者は,五人組,十人組の中で,養うようにさせた。一村が,火事や水害など大きな災難にあった時は,近隣の四か村が救援すべきことを定めた。鷹山は老人たちに,米沢の小さな川,池,沼の多い地形を利用した鯉の養殖を勧めた。美しい錦鯉は江戸で飛ぶように売れはじめ,老人たちも自ら稼ぎ手として生き甲斐をもつことができるようになった。さらに鷹山は,90歳以上の老人をしばしば城中に招いて,料理と金品を振る舞った。子や孫が付き添って世話をすることで,自然に老人を敬う気風が育っていった。父重定の古希(70歳)の祝いには,領内の70歳以上の者738名に酒樽を与えた。31年後の文政 3 年(1820年)3 月,鷹山自身の古希には,その数が4, 560人に増えていたとされる。

 藩政府による「扶助」は,天明の大飢饉の際に真価を発揮する。天明 2 年(1782年),長雨が春から始まって,冷夏となった。翌 3 年(1783年)も同じような天候が続き,米作は平年の 2 割程度に落ち込んだ。

これに対する米沢藩の対応は,

・藩の囲米を開放し,藩士,領民の区別なく一日あたり,男米 3 合,女 2 合5 勺の割合で支給した。
・酒,酢,豆腐,菓子など,穀物を原料とする品の製造を禁止した。
・比較的被害の少ない,酒田,越後からの米の買い入れをした。
 鷹山以下,上杉家の全員も,領民と同様,三度の食事は粥とした。それを見習って,富裕な者たちも,貧しい者を競って助けた。
全国300藩で,領民の救援をなしうる備蓄のあったのは,紀州藩,水戸藩,
熊本藩と,米沢藩の 4 藩だけであった。近隣の盛岡藩では,人口の 2 割にあたる 7 万人,人口の多い仙台藩では,30万人の餓死者,病死者が出たとされているなかで,米沢藩では,餓死は一人も出なかった。それだけでなく鷹山は,他藩からの難民にも,藩民同様の保護を命じている。
また江戸にも,各地から飢えた民が押し寄せたが,幕府の調べでは,米沢藩
出身のものは一人もいなかった。
米沢藩の業績は,幕府にも認められ,「美政である」として三度の表彰を受
けている。

なんじゃこりゃ…ってなるくらいすごい政治してますね鷹山。トップに立つ者の気概というか、意地というか、責任というか。。。

僕なりの考えだと、
・「自助」のための支援(商品作物等の栽培、開墾など)
・「共助」の規範整備(互いに助け合う風潮づくり)
・「公助」のバックアップ(十分な備蓄、給付)
この3つに分けられると思います。
 そしてなぜそれができたかと言われれば「リーダーが率先して範を示す」ということに尽きると思います。菅さんにはそれを期待したい。

ちなみに人によっては「これって防災用語なんじゃないの?」と思う人も多いと思いますが、それに関しては以下の論文が詳しいかな。そしてこれめっちゃいいな、と思いました。

災害対策基本法は基本的に「公助」の体系だった(自助・共助に防災の責務を負わせるのはごく限定的だった)が、阪神・淡路大震災でその限界を露呈。以降、自助・共助の重要性を行政の側が発信するようになり、また、そのための体制整備の支援も行ってきた、というのが大まかな流れです。

このときも、自助と公助の境目は議論されていたらしい。(以下引用)

地震防災の本命である耐震化が自助の範囲であることは都市住宅を巡る最大の論点であるといえる。伝統的な任意性のある自助論では防災対策に万全を期せないどころか、いざという時に甚大な被害を招来しかねない。阪神・淡路大震災後の耐震化の努力義務の付与により任意的自助から踏み出し、かつ、財政的、行政的援助という意味での公助が負荷されたものの、前述したように効果があがってこない。

公助を増やすべきという議論は当然あり得る。もっともこれは私有財産に対する補助は基本的に公的支出になじまない、なじませるべきではないという議論を踏み越えなければ成立しないが、それはともかくとして、被災者生活支援法の制定時に財政支援は耐震改修を重視すべきという論があったことは、自助、公助論という点ではなかったにせよ特筆しておかねばならない。任意性から義務性へという論点が自助・共助論について議論されていく必要があり、公助の体系である災害対策基本法では自助・公助について任意性と責務性、義務性についての総合体系化の議論を進化させていかなけれ
ばならない。

せっかくこんないい論文があるんだからみんなこれを一読してから「三助」について語ればいいのに、と思ったのは果たして僕だけでしょうか…
 とても分かりやすいし読んでいてうならされる論点が提示してあったと思います。防災対策の限界と日本型社会保障の限界はほぼ同時期に起こっていますし(僕の主観)。

そう、一般論としての「自助・共助」はあっても、果たして「自助・共助」は「政治、行政の世界において」責務・義務なのか。ここが今回議論をする上で欠かせない目線なのではないかと思っています。そういうものを押し付ける弊害はないのか。防災ではあった。では社会全体では?

 今までの社会は、自助は誰かに強制されてするものではなかった。共助だって、自発的な取り組みだった。だからこそ自助につらさを感じたらセーフティネットを頼ることに躊躇はなかったし、みんなそれぞれが思う「できる範囲」でやっていた。
 今回、「自助」が「行政」の世界から言われるようになった。これまでの任意性から、責務性、義務性を帯びるようになった(次期首相の発言はそれだけ重みがある)。このとき、様々なアクターは何を思い、どう動くのか。今から想像を巡らせておく必要がある。特に、「自分が貧困だ」と認めるのに抵抗が強い日本社会において。


もちろん「それとこれとは別」と言い返されたら何もできないんですが、今回はこの視点を借りてみていこうかな、と思います。

「任意性から義務性への是非」に着目しつつ、いろんな人の意見を分析していきましょう。これは次回ね。

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