傲慢
長かった半年が終わった。3月から本格的に受験勉強に身を入れ始めて、5月の一次試験を突破し、やっとの思いで8月中旬、2次試験を終えた。その期間、勉強と向き合いながらも同時に、自分自身と向き合っていたように思う。
私には勉強しかない。
度々人生の中で登場してきた言葉。私には自分を誇れるものが勉強しかない。勉強の能力があると言うよりは、勉強を何時間も続けられる能力。試験に受かるためなら何日も部屋に閉じこもって、余計な刺激を自分に与えずに、淡々と目の前の課題をこなすことができる能力。同時に、私は自分を特別だと思うことでしか自分の価値を認めてあげられないこともわかっていた。Xに溢れる情報、模試の結果、誰かのオスすする勉強方法。勉強方法を発信することでフォロワーを得て、皆から敬われ、送られてくる質問に答える人のアカウント。Xの世界では、その人の勉強方法が全てで、その人を敬うことが普通で、けど私にはその人をそれほどまでに敬う理由がちっとも分からなかった。自分の信じてやってきた勉強方法が間違っていると言われている気分になった。だからその人のことは、ミュートした。
人は人、自分は自分。そう思えたらどれだけいいか。私は自己が簡単に揺らいでしまうから、自分にとって都合の悪い情報をシャットアウトすることでしか自分を守ることができない。勉強に限らず、人生全般で。
試験が終わって、『傲慢と善良』をやっと読むことができた。人間はみんなどこか傲慢で、相当以上の価値を自分につけてしまうのかもしれない。私も、勉強に関して傲慢なんだ。人より勉強時間が多いから、ちょっと学歴がいいから、失敗経験が少ないから、自分の勉強方法が正しい、自分が勉強すれば他の人より良い点がとれる、自分のやり方を否定されたくない、私は絶対に受かるんだ、他の人と違う、と心のどこかで思っている。
本当は、自分が1番で居れるように、自分より上の人達の存在を排除して、自分が1番で居れる場所にしか身を置いてこなかっただけなのに。
人から否定されることが、人並み以上に嫌いだった。私の妹は毎日毎日親に同じ理由で怒られている、けれど「自分は自分がしたいようにしているだけ、親には関係ないのに」と言う。私にはそれが信じられないし、理解できないし、尊敬もする。
怒鳴られるのも大きい声を聞くのも苦手なのもあるけれど、怒られるって、否定されることと同じ。自分に能力がないと言われているように感じる、だから必死に否定したくて、怒られない方法を探す。自己愛が強い。
他人といる時の自分は全然好きじゃないし、いつも自信なさげにしているくせに、自分1人になって自分が思うまま好きなことをできる空間にいると、自己愛が強いことを自覚する。自己愛が強いから、他人の真意を付いた言葉を受け入れられない。そんなことない、私はそんな無能じゃない、違うのに、そう思うから色々なものをシャットアウトしてきた。悔しいけれど、そう認めざるを得ない。
自分の唯一のものから拒絶されたとき、私はどうなってしまうのだろう。もう勉強とは向き合いたくないと、一生机から逃げてしまうのだろうか。今後、自分の無能さを受け止めて向き合って、胸が張り裂けそうな思いで、日々悔しさと向き合いながら、もう一度試験に立ち向かう日が、きっとくる。それを乗り越えないと、一生殻に閉じこもったまま、成長できないって、今ならわかる。
一方で、シャットアウトすることを無意識に選べるようになって、無駄なことで悩む時間は減ったなあとも思っている。その判断が、自分のためになること、自分が望む自分になること、に繋がっているような、そんな的確な判断ができているとはまだ思わない。けど、断然今の方が生きやすい。
大人数の集まりが苦手なことをはっきりと自覚した、1人行動が楽で楽しいことを知った、友達は狭く深くでいいんだと思えた、勉強が趣味なことを変じゃないと思えるようになった、大学生だからって無理に遊ばなくていいんだと思えた、なぜ生きているのか問う暇もないくらい何かに熱中していることが一番幸せだと気付いた。
もう世間の普通に囚われずに生きていきたいと思う。普通は普通じゃないと、当たり前にそう思えるように、今に熱中して生きていきたい。普通に囚われていたのはいつだって自分自身で、誰かから強要されたわけじゃない、だから、自分自身が自分を普通で縛ってしまわないように、生きていきたいなあと思う。
好きなことに全力で