花
わたしってこんなこと考えてる人
にしなの曲を聴くと、いろんな情景が浮かんでくる。聴いたときの感情をそのままの形で ゆるく書いてる
登録有形文化財である大学の本館が改修工事されていて、建物全体が薄黒い幕に覆われている。本館含む大学の景観が大好きなので少し悲しいけれど、大好きだからこそ本館には是非長生きしてもらいたい。そういえば、本館の入り口の前には大きな金木犀の木が植えられていて、この時期になるとSNSで「金木犀の匂いがして秋を感じる」などという声が聞こえることを思い出す。私は秋が大好きなのに、金木犀の匂いを感じたことがないな、それも毎年・・・ 私にとって、秋と言えば秋空で、からっと晴れた雲一つない秋の空
半年以上ぶりにオールをした。思っていたよりも体調は死なないし、次の日早く寝たいとも思わないみたいで安心した。多分オールの次の日は軽く予定があった方がよくて、寝れる時間がたくさん取れてしまった方が却って体調が悪くなる方に引きずられていく気がする。 大学生の皆さん オールはよくしますか? 世間の当たり前だと思っていることって意外と世間の当たり前じゃなかったりするし、いろんな人の話を聞くたび、いろんな世界や界隈があって、当たり前なんてくくりでまとめられる物事なんてないのかもしれ
長かった半年が終わった。3月から本格的に受験勉強に身を入れ始めて、5月の一次試験を突破し、やっとの思いで8月中旬、2次試験を終えた。その期間、勉強と向き合いながらも同時に、自分自身と向き合っていたように思う。 私には勉強しかない。 度々人生の中で登場してきた言葉。私には自分を誇れるものが勉強しかない。勉強の能力があると言うよりは、勉強を何時間も続けられる能力。試験に受かるためなら何日も部屋に閉じこもって、余計な刺激を自分に与えずに、淡々と目の前の課題をこなすことができる能
どうしてもなんとしてでも、2年前から目指してる国試に合格したくて、8月までに絶対に終わらせたくて、大学のコマ数も減らして飲みの誘いも断って、まずは1ヶ月後にある1次試験に向けて勉強をしている。そしたらちょっとおかしくなっちゃって、5時台に幸せな夢を見て泣きながら起きた。久しぶりに、誰かを大切に想っていたときの気持ちを思い出した。わたしが考えていることのほとんどは勉強と恋愛のことで、時々嫌になる。他のことに興味がなくて、だからこんなに辛いのに、大学入試終わって3ヶ月後には予備校
○○な人は○○な傾向があるとか、そうやって分類分けして型に落とし込んでしまうのは、予測可能な範囲で自分自身を守る為で、目に見える物差しでしか他人の事も、ましてや自分の事も、認めてあげることができていないということ、
いつも誰かの特別になりたかったわたしは、いつの間にか誰の特別でもないわたしに慣れて、「誰もわたしのことなんか気にしてないか」、と思えることに心地良ささえ感じていたりして。何をするにも、どこへ行くにも、何を感じるにしても、全てを誰かに共有して、評価して貰えなければ、わたしは”ここに存在している”と思えなかった、価値が分からなかった。他人に認めて貰えた感情こそが、他人を感嘆させられた行動こそが、意味があるものだと思い込んで、縛られていた、その思考に。 Music Videoを見
「一人でいる方が、自分の世界に没頭している方が、楽しくて充実しているな」 と思えてしまう今は、誰かと一緒に過ごす機会に恵まれているのでしょう。一人で過ごすことに満足感を覚えることは、誰かと過ごす時間と対比で浮かび上がってくるものだ。少なくともわたしは、誰かと過ごすことが苦手な寂しがり屋だから、ひとりで過ごす時間がずっと続いてしまえば、誰かと過ごす時間が恋しくてひとりじゃ満足出来なくなってしまうだろう。 人とコミュニケーションをとるときの正解は、生きる意味はあるのか?と同じ
最近は目の前をタスクをただひたすらこなすような日々で、今日はわたしの地域よりもひと足早い地域の成人式や同窓会の写真を見て、心が疲弊してしまった。大人数は苦手だし、人と話すことも得意ではないけれど、最近は素敵だなと思う人のいいところを言語化してみるように意識している。ちょっと前までは自分の現状から何かを変えることを拒んで、人のいいところなんて見つけようともしなかったから、その頃のわたしと比べれば自分の人生どうにかしようと頑張れている気がする。3,4人での会話なら、と思い、今月は
最近はエッセイを読むのが好きで、noteもその人の日常やあたまのなかを覗くことができるから好き。だからわたしも、日常のそのままを着飾らずに書いていきたいなあ、と。
夜にバイトのシフトがあった日で、人とうまく話せなかった日は、帰ってすぐに布団に入れない。なんだか今日に忘れ物をしているような気分で、何かやり残したことが沢山ありそうで、見つかるわけもないのにSNSを徘徊する夜。自分のために生きるって、どうしてこんなに難しいのだろう。好きなアカウントを覗くと、趣味に没頭していたり、日々を少しでも楽しくするために工夫していたり、見ていてとても楽しい、わくわくする。だけど、わたしはきっと見ているだけで満足で、それを実際に自分がやる行動力もなければ、
もしも明日地球が終わるなら、と考えるとワクワクしてくるのは、今日という日が特別になったような気がするから。やりたいことを好きなだけやることを無条件に許せるから。 もしも明日という日がこないなら、今悩んでいることをなんの躊躇いもなく忘れ去ることができそう。わたしたちが悩むのは、悩むことで自分を守っているからだ。明日からの日々に対して無防備にならないように、予防線を張るための手段。 「終わりがあるから輝くんじゃん」、とわたしの大好きな子が言っていた。昨日言っていた。その時のわ
人間の感情は本当にきまぐれで、さっきまで自分の存在意義に価値を見いだせなくなっていたと思いきや、急に自分はとってもとっても幸せ者かもしれない!と思い始めて、そして今は平穏な心になってnoteを書いている。本当に自分でもびっくりしちゃう。 さっきまでの私は、お母さんから20歳のプレゼントにお高めの鞄を貰って、こんないいもの普段買えないから、この鞄が似合うような大人の女性にならなきゃな…と思い、一旦部屋に溜まっていた洋服をちゃんと棚にしまいました。だらしなくてごめんなさい。でも