想像と共感はわたしを救わない
半年以上ぶりにオールをした。思っていたよりも体調は死なないし、次の日早く寝たいとも思わないみたいで安心した。多分オールの次の日は軽く予定があった方がよくて、寝れる時間がたくさん取れてしまった方が却って体調が悪くなる方に引きずられていく気がする。
大学生の皆さん オールはよくしますか?
世間の当たり前だと思っていることって意外と世間の当たり前じゃなかったりするし、いろんな人の話を聞くたび、いろんな世界や界隈があって、当たり前なんてくくりでまとめられる物事なんてないのかもしれない。夜二時に寝ることにとっても驚かれる世界もあれば、夜二時に寝ることなんて当たり前な世界もあるし。
小さい頃、「自分がされて嫌なことは他人にしちゃいけない」ってたぶんほとんどの人が教えられて生きてきたと思うけど、この言葉は小さい子が道徳的に成長するために必要な言葉なんだと思うけど、大人になるにつれて修正しなきゃいけない言葉だと思う。他人の気持ちを想像したり、共感したりすることって大切なことだって言われたら「うんそりゃそうだよ」って思うけど、本当にそれだけ?注釈いらない?と思うようになった。
震災のドキュメンタリー映像を見て感想を求められ、でもそれを体験していない私が書ける言葉なんてからっぽで、これなら書かない方がましなんじゃないかと思う。失恋した友達から相談を受けて、一生懸命相手の立場に立って、言われたら救われる言葉を探してみたりするけれど、自分が経験してそこから生じた感情しか知らない私に相手の何が分かるんだろう。
だから、いろんな経験を積めば、もっと感情の引き出しを増やすことができるんじゃないかって期待した。恐怖も不安も怒りも悲しみも喜びも幸せもやるせなさも無力感も、集めて必要な時に引き出して追想できるように。
一生出られない大迷宮の中に迷い込んだ経験がある。あれはきっと、私が入り込んじゃいけない世界だった。私がどれだけ考えても、共感しようと思考を巡らせても、思考の渦の中にただ一人取り残されただけだった。私がするべきだったのは、分かろうとすることでも想像しようとすることでもなく、ただあなたはそう思うんだね、と受け入れることだったんだと今になって思う。ある言葉の概念に関する認識が異なれば、想像・共感できる域に私たちは居なくて、想像・共感することは諦めなければいけないらしい。「私だったらこの行動をしたときはこうゆう気持ちだよな」と自分に置き換えることを一切せずに、「あ、こうゆう行動をされた。じゃあその行動をそのままの意味で受け取ろう」と素直に受け入れること。
想像・共感が大事だって、今じゃ全てのことに対してそうだとは思わない。人間は一生孤独で、本当の意味で分かり合うことなんてできなくて、そんな存在同士に想像・共感を求めること、大事だよって言ってそれで終わりで、誰もこの言葉に疑問を持たなきゃだめだよって教えてくれなかった、学びの場では常に想像と共感を求められてきた、でも私は、一度立ち止まって疑問を持つべきだと思う。共感と想像によってすべてが救われるわけじゃないよって、相手も自分も、そんなものだけでは救われない場面はたくさんあって、共に生きていきたい人がいるなら時には想像と共感を諦めなければいけないよって、大事な場面でこそ特にそう思う。
想像と共感を通じて主観的に相手をみるのではなくて、ただまっすぐに相手をみる。私の目の前にいるあなた、たった一人の愛しき存在として。