「官僚制のユートピア」より「プレイとゲーム 」/ デヴィッド・グレーバー
8歳の息子はマインクラフトに夢中だ。クリエイティブモードで建物や橋を作り、それをTNTで破壊したり、農作物を育てたり、動物やクリーチャーを創造している。マインクラフトはいわゆる「ゲーム」とは違った概念で作られている。マインクラフト自体に主だったルールは無く、その世界の神となって創造と破壊を自自由自在に行う事ができる。ゲームとしてクリアに当たる到達点も存在しないようだ。
「官僚制のユートピア」では「ゲーム」と「プレイ」の違いについて述べられている。「プレイ」は「ゲーム」を創造できるが、その逆は真ではない。「ゲーム」はあるルールに則って進めていく事でクリアできる物を指す。
日々の生活がルールで雁字搦めなのに、人は何故ゲームをするのか。またそれを楽しいと感じるのか。デヴィッド・グレーバー曰く、「ルール化されている日常は更に目に見えない従うべきルールで溢れている」という。例えば、この人と話す時はここで相槌を打って、それから意見を言うだとか。この人は月曜日の午前中は機嫌が悪そうだから、夕方のそう遅くない時間にMTGを設定しようだとか。皆思い当たるところはあるだろう。日々の中でルール化できない、しかしフォローしなければならないルールは無数に存在する。一方でゲームの中ではルールが明確化されている。多少難しい部分はあるにせよ、クリアできる確かなルールが存在する。日々の生活で見えないルールに翻弄される我々は確かなルールに従えば達成感を得られるゲームに快感を覚える。
マインクラフトにはルールは存在しない。ただのランダムでも無い。息子はマインクラフトを「プレイ」している。彼は目に見えないルールに縛られていない。そのため創造と破壊を純粋に楽しみ続ける。巨大な建造物を物凄い集中力で建造する。TNTを大量に使って岩山を破壊する。
音楽のセッションもまさに「プレイ」だと思う。最低限のルールの中でミュージシャンは思う存分に「プレイ」する。そこにクリアはない。実力を上げれば「プレイ」の内容は変わる。一緒に演奏するメンバーによっても「プレイ」は大きく変化する。自転車も「プレイ」の要素が多く存在する。同行するメンバーの体力によってルートを変えたり、変わったルートによって食事の内容を変えたりする。そこにクリアはない。しかし、音楽や自転車を「ゲーム」として運用する人達もいる。音楽でいえば「完コピバンド」。自転車で言えば「ローディー」がそれに当たる。彼らは決められたルールにハマる事に快感を覚える。決められた演奏をする。決められた距離を決められた時間で走り切る。そこに美学はあると思うが私は価値を見出す事ができない。
「ゲーム」は創造性を奪う。ルールだらけの世の中を平常心で生きていくには「プレイ」できる領域を常に探すとが必要だと思う。ルールに抗う自由とランダムの間にあるものが「プレイ」だと思う。全てのことを「ゲーム」ではなく「プレイ」として生きて行ければなとマインクラフトに夢中になる息子の背中を観て思った。