語彙力なんて使い物にならないよ
「語彙力あるよね」
と、不意に言われることがある。
たぶん、褒め言葉だと思う。
語彙力というと、単純に使用可能な言葉の総数が多いことを指すのか、はたまた適切なタイミングで適切な語彙を選択できることを指すのか、語彙力の定義はあまりわかったものではないけれど、たぶん、褒め言葉だと思う。
使用可能な言葉の総数が多いことを指すのであれば、それは記憶力の高さを褒めているのか、それとも聞き手の脳を間接的に拡張している快感に対する感謝なのか、これに関してもわかる限りではない。
僕はよく、語彙力がある、なんて言われる。
しかし、別にそれがあることで何か得をしているとか、これがうれしいということはあまりない。
一方、語彙力があることは、プレゼンターや企画職、あるいはコミュニケーションの一つの指標として非常に有効なものになるようだ。
「どこでそんな表現を覚えたんですか?」
「どうやったらその言葉が出てくるんですか?」
と、言われることもある。
うれしいのだけれど、素直に喜べない気持ちもある。
それは、僕自身の書いた文章や話す内容自体に価値がない、あるいは僕という存在だけに焦点が当てられているから。
誰だって自分の作った作品を見てほしいし、誰だって自分の子どもが一番かわいい。
語彙の多寡はあくまで手段としてのあり方に帰着するし、語彙力を鍛えること自体はできても、「それがなんのためになるのか?」という意味論で再提起されたとき、だいたいはじけてなくなることが多い。
「赤信号は渡ってはいけません」
誰もが知っている。当然のことである。
同様にして、語彙力のあるないに関しても、当然結果として語彙力がある状態が認められてなお、それ自体にあまり意味はないのだと思う。
意味のないこと自体は好きだ。
ロジックの通らない、くだらない言葉遊びも好きだ。
馬鹿げたこの世界も、結局大好きだ。
だからこの世界を描くためには、まだまだ言葉が足りない。
言葉と仲良くならなければいけない。
彼らを仲直りさせなければならない。
それほどまでに、この世界はぐちゃぐちゃだ。
語彙力を鍛えることは悪いことではない。
僕もこんなふうに彼らを守り、そしてパズルのように組み合わせていくことには興奮を覚えるし、それがもっとも遠回しに世界をとらえる方法であると思っているから。
ただこれだけは忘れたくない。
語彙力なんて評価されても、結局使い物にはならないから。
2020年1月15日
オチのないショートショート.