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「価値」を探す人生は終わりました。

世の中には価値があることと、価値がないことがあったりします。

当然、コミュニケーションが生まれて、言語が生まれて、「違い」がわかるようになった人類は、その後、米や麦の生産によって「余剰」を手に入れ、「高価」と「低価」という感覚を身につけたのだと思います。
そうやって「悪い」ものと「良い」ものに色々な角度をつけて、色をつけて様々なものに「価値がある」と「価値がない」を作り出してきました。

今ではそこへIT技術が加わって、人は簡単に「たぶん価値があるもの」と「たぶん価値がないもの」を選択できるようになりました。

どう考えても、価値のあるものがすぐにわかる時代は便利だし、どう考えても、価値のないものやことは自分では持ちたくないし、自分はそれに関わりたいとは思わないでしょう。

では、その情報のアルゴリズムの中で、「価値のない人間」だとあなた自身が指摘されたら、どうなるでしょう?

「あなたには価値がない」
「あなたのやっていることには意味がない」
「あなたの考え方は効率が悪くて無駄だ」

そう言われないまでも、今もどこかで、意味や価値を求める声は大きく、耳をつんざくように鳴り響きます。

「自分には価値がないんじゃないか」
「もっと誰かに認められたい」
「僕のやっていたことは意味がなかった」

なんて思う人がいるやもしれません。
意味のないことはたしかにあるかもしれません。価値のないものも生きている限り、あるかもしれません。

意味があるもの、わかりやすいもの、みんなが使えることが仮に正義的に位置付けられるとしたら、僕は真っ先に滅殺されるでしょう。
わからないもの、どう考えても答えの見えないもの、それを一生考え続けることは、意味のないことでしょうか。

「どうせ死ぬんだから死ぬことなんて考えなくていい」
と言われたとして、

あなたが死ぬことを考えることを通して得た恐怖や、死への理解は、本当に価値がないことでしょうか。

「行動して初めて思考に価値が生まれる」
なんて世間では言われるけれど、

あなたが悩んで悩んで悩んで、何かを何度も天秤にかけては天秤を疑って、そうして結局諦めて行わなかったアイデアには、果たして価値がないのでしょうか。

価値があるものは手に入れたいし、意味のあることだけやっていたいし、できれば自分は何者かでありたいのです。

でも、どこまでいっても、僕は僕というところから離れることはできないし、明日もきっと、たぶん僕なんです。
だからこそ、意味のあるもの、思考を僕へ溶接させ、自分を大きく見せていました。それで自分には価値があると思い込んでいました。
こころの中では、すでにそれには気づいていたのに。
僕が身につけた何もかもが、実は僕じゃないなんてことくらい。

それはとっても虚しいことです。悲しいことです。
だから、僕は価値を追求する人生はもうやめました。
意味のあることが価値になる時代に、意味のないものが、接続ではなく溶けているような、ただ自然として、それ自体で世界が成り立つような、そういう状態に自分の体を放り投げて、自分もただ一部として生きよう、と。

「意味のある」ことばかりしようとすると疲れます、自分に価値がないことに気づいてしまいます、それは本当に恐ろしい形相で、自分を追いかけてきます。

「意味」や「価値」だけで考えるものさしを、一旦川べりに捨てていきませんか。

ものさしを使うのではなく、長さをただ、そのまま眺めてみませんか。

僕らがかつて子どもの頃、車をただ、「ブーブー」だと思っていた、あの時のように。

2020年1月8日
オチのないショートショート.


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原田 透
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