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明日は「美しい」と思えなくても〜死んだ「美しい」を眺めて〜

---今日の青空は、うんざりするほど濃いな---

自分の目は、別の何かを見ているようだった。

今年の夏は、しびれを切らしてフルスロットルでやってきた。
今か今かと好機をうかがい、颯爽と僕らの体力と気力を撲殺しようとしている。そんな時、人は至って惨めだ。たとえ環境が悪くなろうとも、エアコンの設定温度はどんどん低くなる。僕はこれでも27℃を下回った設定をしたことはなかったのだが、今朝リモコンを確認すると、25℃になっていたことは地球様には秘密にしておこう。
どんなときも誠実でありたいと思いながら、人生の中で狡猾な瞬間はひときわ目立ち、本当はそれこそが僕であると思ってしまう。

そんな昼過ぎに見た青空は珍しいくらいに濃青で、僕はそれを写真に収めたくなった。
ひとりのちっぽけなカメラマンとして、それは自然な感情だと思う。
しかしシャッターを切って以来、僕はそれを見てはいない。

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ここ最近の僕は、自らと写真という関係性に対して、ひどく懐疑的であった。というのも、いきなりではあるが、あろうことか写真などやめてしまえと思うようになっていたからだ。

世の中にはたくさんの仕事があり、そしてたくさんの芸術があり、たくさんの人がある。
その分だけ冒険があり、またその分だけそれらは芸術となる。
僕が写真を撮る理由も、また他の多くの者が写真を撮る理由も千差万別であると同時に、それらの貴賎などは存在してはならない。
しかしその一方で、「写真は、僕のことを嫌いなのではないだろうか」と思うようになっていた。

誰も自分を忌み嫌う者に好かれたいなどと思うこともないし、媚びへつらう必要もない。だから僕と写真は、お別れすべきなのではないだろうか、と、恋人のように勝手な想像力を走らせる。たぶん、人はこれを「相性」などと呼んだりする。

つまるところ、僕は写真との相性が悪いので、さっさと別れを告げて新しい出会いに胸を躍らせるべきなのだ、と考えていたということである。
そう、世の中にはたくさんの仕事と芸術がある、だから僕はここにこだわる必要はない、役割分担をして、誰かに僕の感情も表現も任せてしまえばよいのだ、と。

---実際のところは、僕は写真が大好きだった。だからこそ、写真が僕を嫌ってくれればこんなに楽なことはないと思っていたのだ。衝撃的に裏切られたかったのだ。僕が拒絶する口実が欲しかった、とでもいうべきか。
裏切る前というのは、裏切られた事実を捏造したがるものだ。
裏切った者には、因果応報の名の下に、正当に私刑を執行してもいいと思っているのだ。

そんなことを悶々と考えていた梅雨の終わり。
僕は思いがけず「とんでもない」ことに気づいた。

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きっかけは、ある友人のカメラマンが僕の作品を見たときのことだった。

彼女は僕の写真に見応えがあると評価してくれていたのだけれど、僕は遠慮でもなんでもなくその写真が「いい」と思えなかったのだ。一体この色彩感覚はなんだ、このステイトメントは何を表しているんだ、なんて素直すぎる表現なんだ、僕はもっと面倒くさくて、それでいてだらしのない感情に愛を寄せるような人間ではなかったか、と。

ああ、僕は自分の写真を嫌いになってしまったのか、やはり自分の写真すら愛おしいと思えない写真家は、早々にカメラをしまった方がいいのだ、そんな絶望がこじつけられていく。

いや、誰にでもあることであろう、昔好きだった漫画が好きだと思えないことだとか、世のファッショニスタたちが毎年新しい衣服を駆り立てられるように購入するのも、同じこと(ではないのかもしれないな)。

写真をやっている人なら、自分の昔の写真を好きだと思えない感情は、意外と普通のことだと思っている。
それはある時は情緒や懐古といった形で活躍する。
しかしなんというのだろう、これはもしや連続するアイデンティティの否定につながるのではないだろうか、という大げさな考察が脳裏によぎる。
僕の美しいと思っていたものは、もう美しくない。明日は今日の僕の「美しい」も消えてしまう。であるなら、明日の僕は、一体誰なんだ?という、馬鹿馬鹿しいまでの焦り。
そんなことは嫌だ、僕の美しい記憶を返してくれ、と誰に言うでもない哀願が。
もうだめだと思った時、突然、おかしな、それはおかしな問いが沸き立った。こういう時、僕の脳みそは衝動的にはたらき始めるのは自分がよくわかっているのだが。
そう、「その変化は果たして、悲しいことなのだろうか?」という問いが。

写真なんてものを大きく捉える気はあまりない。
あれらは光に映し出されたただの現象であって、「そんなことがあったかもねえ」くらいで終わってしまう、ちっぽけな時の一点である。
とはいえ、僕がシャッターを切った事実自体からは、僕はあれを美しいと思っていたこと程度しかわからない。

であるならば、それが線になった時、僕はそこに何を見るのだろか?あるいは、写真は僕に、何をもたらすというのだろうか?
妄想は膨らんでいく。

---いや、写真が「すでに」美しいものであるとするならば、どうだろう?
過去の僕は、それを美しいと思っていた。それは揺るぎない。しかし、メタ的に、それを美しいと思っていたということに気づけるのは、写真を撮らなければ発生することのなかった奇跡であり、また、それは今の僕が「美しい」と思っていることが変わらなければ発生しえないことでもある。
つまり、写真と写真の間にあって初めて、僕の思う「美しさ」の本質を見出すことができるのではないか、という微妙な仮説である。

シャッターを切ったということは、過去の僕はその被写体に愛やら麗しさやら、なにがしかの感情の揺れを見出したということである。それは紛れもなく、僕の美意識からくるものだろう。
あるいは自分を投影させる形で、その感情を表現したのかもしれない。
だからこそ、本来写真とはその属性として美しさをはらんでいる。
しかし、それは点としてのものであって、僕が持つ美意識をそれだけから確認するのは不可能であるだろう。

あの日のなんてことはない写真。僕はこれをいいとは思えなかった。
そう、あの日は確か、うるさい西日が差していた。
僕は絶望していたものの、あの他人事のような木々はそれでも味方であるような気がした。だからシャッターを切った。そんなことを思い出す。
そして、僕がもし今あそこに立っても、これを撮ろうとは思わない。ということは、僕の思う「美しさ」それ自体は少しずつ、少しずつ流動し、そしてゆるやかに僕たる何かを形成しているのではあるまいか。

---そうか、僕の思ったあの「美しい」は、あの時死んだんだ。写真とともに、写真の中に---

鑑賞者によって芸術とは洗練されていく。鑑賞者なき芸術表現は存在しえないとまで言われても過言ではないくらい、鑑賞者や再解釈の重要性については言うまでもない。

これは新発見でもなければ、きっとこういった芸術的立場には、なにがしかの名前がついているのだろう。
でも、そんなことは今の僕にとってはどうでもよかった。

---僕の「美しい」は、ちゃんと生きているんだ。だから、心配しなくていい。僕の写真も、誰かの写真も、すでに美しいんだ。ああ、なんて素晴らしいことなんだ!---

これに気づいたとき、僕は嬉しくて嬉しくてしかたがなかった。本当に、どうしようもなく些細な、そして当たり前のこと。
そう、昔好きだった漫画の絵が今は好きではなくなってしまったように、今年もまた、新しい衣服を身につけたくなるように。
僕は、タンスの奥にしまわれた、陽の目を浴びない「ダサい」シャツを見つけた。

対応する写真たちを眺めて、かつての僕は一貫した美意識こそあれと思っていた。
2枚の写真が並ぶ。一方の写真も、もう一方の写真も、当時はきっと美しかった。そして、どちらも僕が撮影した。
どちらも今でも美しいとは、無理をしてでも言うべきではない。美しいと思えなくなったこの「時間」を、大いに楽しみたい。時間とはそう、変化なのだから。

そしてきっと、過去の写真がそれでも美しいと思えた時、何度も「死んでしまった」記憶を呼び起こすのだろう。それは僕の手元から戻ることはついになかった。それは避けることのできない、困難であり、あるいはきっと切なさだ。何かが失われてしまったと思うかもしれないのは、それこそ自然な感情だ。

けれど。
けれど、それこそが、感動ではあるまいか。心が動いているということの、意味づけでしかないというのだろうか。

だから、これからも不安になることはない。他の誰が何を言おうと、僕の美意識はすでにその写真の中で死んでいるんだ。
死者に何を語りかけても、もう何も動かない。
残されたのは、僕と美しさを取り巻くちっぽけな点と点。

明日の僕は、どんなものを美しいと思うのだろうか。
明日も空だったらいいな。
明日も部屋に差し込む光に挨拶できたらいいな。
明日も恋人に好きって伝えられたらいいな。
そう、写真に聞いてみただけ。

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しかしまあ、大げさなことを言ってしまったものだ。美しいが死ぬだなんて、縁起でもない。
思えば、自分の写真が嫌いかもしれないという感情からこの探求を始めた。
写真が嫌いになりたくて、写真に嫌われたかったのに。
僕は、とんだお調子者だな。

なぜなら「裏切る前というのは、裏切られた事実を捏造したがるものだ。
裏切った者には、因果応報の名の下に、正当に私刑を執行してもいいと思っているのだ
」から。

写真が好きになりたくて、写真に僕を好きになって欲しくて、僕は裏切られた「とんでもない」ことを捏造したからだ。





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