(その5)知性改善論(知性の優劣について、それはどのようか及びどのようにそれは起こるのか)
確かに、知性には優劣がある。というのも、人それぞれできることとできないことがあるからである。(それはもちろん得意不得意のことである)分かりやすい例を挙げると、教科である。なぜだかそれには得意不得意がある。まあ、これは言うまでもなく個人の「特性」でしかないのである。(そうだから断っておくがそれがない人もいるがそれはそれでその人の特性でしかない)
さて。このことから知性のとりあえずまず、優劣の前に「特性」があるということが露呈した。(なぜこのことを取り上げるかというと、優劣には特性が関与しているからで、というのも、優れている劣っているというのはまさしく図抜けているということでしかないからである)だから次に我々は、その特性とはいかようという論究に至れるのである。
以前記述したのだが、人の知性とは「判断力」のことでしかない。つまり、「判断力の特性」こそが知性の優劣ということになる。そして私自身それというのは、「据え付けられた判断形式」に他ならないと考えている。(まあ教育のことである)なぜと言うに、我々はまず「教わらなくては経験を積めない」からである。そしてその時に教えられる一つが「判断形式」なのである。例えば、何かトラブルが起きた時、実際我々には複数の判断材料があり行き着く答えも複数ある。そしてそこから最も適切らしいものを判断して実行するのである。ではその時、一方は「用意されたものこそが正解である」と判断するが他方は「この場合の問題とは何か、今は何が起こっているのか、原因は何か、何が問題を起こしているかを明快にし、ではその適切な判断における材料は何か、そこからまず問題の解決という結果は何か、そしてそこから逆算する」という作業をするのであるが、これはもとよりその経験を積めるようにと「最も最初から教えられる」必要がある。(しかし断っておくが、判断の回数が少なければ少ないほど知性は優れているのであって、なぜなら問題の本質を見抜くことこそ知性の働きであるのだが、実際それは一つしかなく、そしてそれを絶対一直線であって、つまりはあちこちに散逸して論を展開してしまっているのなら、それは混乱でしかないのである)教科書に書いてあることを一番最初のそれは、教えられずして分かるはずがないのである。(まあ、そこから派生させることはできるのである)そしてその経験を積んでこそ応用を可能にするのである。
故に、知性の優劣とは判断に対する態度のことで、それはどのようかというと、教えられた判断形式のことなのである。
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