分かるとは何か。(無経験的純粋性における)
人間は偶然性を必然性へと移行させることで分かるのである。詳しくは人間には生来万物に対する概念(無経験的)というのがあって、(根拠として、仮に人間が全てを経験によって認識または形作っているのであれば、経験とは疑いようなくそれでない何かを最初は必ず用いているはずであるからつまりは、そもそも経験するためには経験以外の何かしらがなくてはいけないからであるから、人間はアプリオリ的概念及び認識を元来有しているのである)人間はそれを元にアプリオリ的認識によってアポステリオリ性にその概念を移行させ、そしてアポステリオリ的ということはアプリオリ的概念を経験によって形作り認識できるようにするのである。そしてちなみに、アプリオリ的概念はそれ単体では人間は認識できない。なぜなら、人間は何かを形作ることでしか認識ができないからで、アプリオリ的概念はその形作るために用いるもので、そしてそれはもともと持っているのであるから、人間はそれを認識できないのだ。つまり、アプリオリ的概念というのは正解のことであって、それは絶対まずアプリオリ的認識をした後にアポステリオリ的認識によって経験を積みその概念を形作っていくということで人間はアプリオリ的概念にたどり着き、そうして人間は「分かる」のである。だから正解というのには「普遍性」があるのである。
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