『恋人』と『彼氏』と『セフレ』。
『恋人』と『彼氏』は、同じようで異なる関係性らしい。
『恋人』は相思相愛で、「一生大切にしたい」と想い合っている相手。
『彼氏』は交際相手。
つまり、相思相愛じゃなくても肩書きさえあれば保てる関係性という事になる。
じゃあ…… 『セフレ』は?
ここからは、独身時代の話。
私が成人したばかりの頃、想い合っている異性が居た。
彼は3つ歳上で、
今思えば、まだまだ幼かった時期だけれど、
あの時の私にとって彼は随分と大人びて見えた。
本職はベーシスト。
音楽事務所にも所属していて、有名なアーティストのツアーに同行する事もあった。
だけど、「自分のバンドで有名になる」という夢を棄てきれない彼は、
なかなか芽の出ないバンド活動ばかりを優先していたせいかベースだけでは喰っていけず、
空いている時間はバイトをしながら生活していた。
その彼とは、バーで働いている時に知り合った。
透けるような金髪の髪に、色白の肌。
細身だけれど身体のラインは整っていて、シッカリとした筋肉が男らしさを主張していた。
酒と、煙草と、音楽が好きで、
「この人とは絶対に結婚したくない」と思いながらも、結構な時間を彼と過ごした。
彼にとって私は後輩であり、妹のような存在であり、
年下の女の子でしかなかったのだけれど、
そんな立ち位置とは裏腹に、
彼は私にだけ随分とみっともない姿を見せていたらしい。
それを知ったのは彼と会わなくなってからの話で、
ある切っ掛けで再会した彼の音楽仲間から聞いた話だった。
私の前では酔い潰れたし、私の前では泣いていた。
それが特別な事だなんて当時は思ってはいなくて……
そういう情けない姿を見せてくれるのは気を許してくれているからなのだと、根拠のない優越感に浸る事はあったけれど、
「あんな風に感情を表に出すような奴ではない」と彼の友人から聞いた時には、密かに高揚した。
ただ、私は彼を信用していなかったのだと思う。
掴み掛けた夢が遠退いて涙を流す彼の頭を撫でていた時ですら、
感情を揺さぶられる事はなく、心に妙な余裕があった。
彼の事は、好きだった。
あまり恋をしない私が、素直に愛しいと想える貴重な人だった。
彼とは、身体の関係もあった。
当時は『彼氏』という肩書きを持っている相手は居なかったから、
彼とそういう関係で居る事に対しての罪悪感はなかった。
指通りの良い髪も、少しだけ乾燥した肌も、
力を入れた時にだけ浮き出る筋肉の筋や血管も、声も、好きだった。
一緒に居る時間は楽しかったし、常に心地好かった。
今思い出しても、彼との間に不穏な時間など無かった。
だから、いつまでも“綺麗な想い出”として存在しているのだと思う。
彼には何の責任を取らせるつもりもなかったし、
将来的に肩書きを持ちたいとも思っていなかった。
彼からも、適度な距離感を保とうとしているのが伝わってきて、
それを、ありがたいとすら感じていた。
私が「寂しい」と電話越しに口にしたら、深夜でも構わずに会いに来てくれた。
私が「疲れた」と弱音を吐いたら、お姫様抱っこをしてくれた。
昼間の葛西臨海公園で、薄汚く濁った海を眺めながらビールを飲んだ。
音楽の機材がパンパンに詰め込んである黒いハイエースに乗り込んで、
窮屈なスペースにおさまりながら、夢の話を語り合った。
口癖のように「可愛いね」と言ってくれた。
「好きだよ」と言ってくれた。
だけど、私たちは『恋人』ではなかった。
『彼氏』でも『彼女』でもなかった。
だからと言って、
その関係性を『セフレ』として片付けたくもなかった。
もし、彼が与えてくれた愛情が偽りだったとしても、
少なからず私は幸福感を得られていたし、満足もしていた。
失った物など何一つ無くて、与えられるばかりだった。
「ありがとう」としか思っていない。
本当に、彼には何も望んでいなかったから。
そんな二人の関係性が途絶えたのは、自然な流れだった。
私がバーを辞めた事で彼と会わなくなってから、
目まぐるしく人間関係が変化した。
彼を思い出さない訳ではなかったけれど、
彼の傍に戻ったら、先へは進めない事が解っていたから……
彼とは離れ、新しい環境で自立したいと強く思った。
それからは、あっと言う間に疎遠となり、
もう彼と関わる事など無いのだろう……と思っていたら、
なんと、3年くらい前に彼から電話が来た。
あれから15年以上が経つというのに……
まさか彼から電話が来ると思わなかった。
電話が来た理由は、共通の友人の連絡先を知る為だった。
その件については何の役にも立てなかったのだけれど。
たった数分の電話だったけれど、当時と変わらない彼の声と口調に心が浮わつく。
簡単な近況報告をしたのだけれど、
彼はあの後、音楽活動は上手くいかなかったものの、
今は音楽好きが集まるバーを2店舗も経営していて、
家庭を持ち、子供も居るとの事だった。
そんな話を聞いていたら、笑みが溢れてしまう程の安心感が込み上げた。
幸せそうで良かった……と心の底から思えた。
今更 彼に会いたいだなんて微塵も思わない。
“綺麗な想い出”は上書きする事なく、
このまま記憶が薄れて消えてしまうまで、そのままにしておきたい。
たまに、こんな風に想い出に浸るくらいが調度良いんだ。
さて、思ったよりも長くなってしまった。
こんなに長文を書き綴るつもりはなかったのだけれど。
ふと彼の事を思い出したら、書きたくなってしまった。
そして、書き始めたら止まらなくなってしまった。
今宵は心がくたびれていたから、
余計に“綺麗な想い出”に浸ってしまったのかもしれないな。
大切にされていた頃の記憶が、心の支えになってくれたような気がするよ。
よし、明日も頑張ろう。今を生きよう。