中学3年の1学期。だんだん見た目にも異様になっていく。
中学3年になって、クラス替えがありました。
今まで仲良しグループだった子とはクラスが分かれ、休み時間などは別の子と一緒に行動するようになりました。教室移動やお昼ごはん、一人ではないのですが、なんとなく居場所がない感じが続いていました。
春には修学旅行がありました。その時も気になったのは食べ物のこと。せっかくいい感じで体重減ってきたのにここでペースを崩すわけにはいかない。どう対応しようか。
新幹線や別のところで友達からおやつを「食べる?」と言われるたびに「ありがとう」と受け取るのだけど、決してその場では食べずに鞄にしまっていました。途中で友人に「まるめろちゃんって、おやつその場で食べないんだね」と言われてどきっとしたり。
途中で出される食事をどう乗り切ったのか忘れましたが、帰りの新幹線の中で、旅行中最後に提供される食事=駅弁をきっちり半分だけ食べて残し。それが終わった後、「旅行中でもなんとかなるもんなんだな」「やりきった」という妙な安堵感を覚えました。
その頃になると見た目にも体重が減っているのがわかるようになっていきました。一番口を出してきたのは母です。近くで見ているから、食べる量が異様に減っていくのも目の当たりに感じられたこともあったでしょう。
「お母さんの若いころは、体重なんて増えこそすれ、減ったりしたら大騒ぎだったわよ」
とか、まあ、手を変え品を変え、いろいろ言ってくるのです。それがまた負担でたまりませんでした。だんだん「食べなさい」という母とそれを拒否する私とで攻防が繰り広げられるようになっていきました。
毎日、毎食、バトルでした。
母からすれば心配だったでしょう。どんどんやせ細っていく娘。それにかえって反発し、いら立っていく私。食べないことをいかに隠すかに必死で。
家族で「なんとか博」みたいなイベントが開催されました。暑い日で。私の記憶にあるのはその日もやたら私が不機嫌だったこと。何にイライラしていたんだろう。わかって欲しい自分とわかってもらえないと思ういらだち?今でも、その日の不機嫌そうな私の写真が残っています。暑かったのでかき氷を食べたくて。でもシロップはカロリーがあるから、屋台で私がオーダーしたのは「かき氷、シロップなしで」。お店の人はきょとん、としていました。
母が作る弁当に細かく指図するようになりました。
「このお弁当箱に、ご飯はこのくらいにして」「おかずはこういうのにして」
「そんなに食べたくないなら、学校で食べたふりして捨ててくればいいじゃないか!そしたら見つからずにすませられるだろうが!!」と泣き叫ぶ母。
そんなこと思いつきもしてなかったし。何的外れなこと言ってんの。
私の中では反発心ばりばりでした。その一方で、あー、そんな手もあったね。と思って、やってみました。弁当の中身を捨てました。
なんだか罪悪感で。。その1回きりでした。
その後だんたん、お弁当は、母には作らせずに自分で作るようになりました。きっちりカロリー計算したものを。それ以来現在に至るまで、私は他の誰にも弁当を作ってもらったことはありません。いえ、ずっと拒絶してきました。
最初は1食400kcal以内を目標としていたのですが、減らせれば減らせるほど減らす工夫そのものも楽しくなってきて。そのkcalもどんどん減っていきました。
卵焼きはフライパンでなく電子レンジで作れば油がいらない
きのこはノンカロリー
ごはんはやわらかめに炊くと弁当箱にたくさん入ってしまうので、固めに炊いて空気を含めるようにふわっと詰める。そうするとかさが増えたように見える。
最初100グラム=2単位、と決めていたご飯は、50グラム=1単位、になっていました。
ご飯が炊けると50グラムのごはんを測って取り皿に入れて冷凍庫でさます。ポイントは少し凍るくらいにすること。すると、お弁当箱に入れたときに、下に空気の層を作って表面だけごはんがあるように見せることができる。
そんな、今にしてみれば妙なこだわりを毎食儀式のように行っていました。
中3の夏休み前頃になると、周りから見ればきっと十分に異常な見た目だったように思います。がりがりで青白い。
その夏の水泳の授業は、なんのかんのと理由をつけてずっと見学にしていました。それでも先生には何も言われませんでした。さすがに、この身体で水泳は無理だろうと、先生も何も言えなかったのかもしれません。
夏、暑いはずなのに、その夏は暑さを感じなかったように思います。皮下脂肪が薄すぎて、よく寒気がしていました。
体重は、どれくらいだったんでしょうね?覚えていませんが、中3の夏休み前で33~34キロくらいか?もっと少なかったかもしれませんね。
今書き起こしていて思うのは、中3の1学期の記憶がとても少ないことです。なんでなんだろう。
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