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猫のいないわけ

こんな句がある。

涅槃図の前をこの世の猫通る 松本澄江

涅槃図は、釈迦が亡くなった時の絵で、春の季語であることくらいは知っていた。
その絵の前をこの世の猫が涼しげな顔で通り過ぎる、そんなユーモラスな光景を描いている。
おおかた、こんな解釈で間違いはないと思う。
先日、京都の高台寺で、涅槃図が公開されているということで行ってみた。
そこで、お寺の方が涅槃図についてわかりやすく説明をしてくださった。
その中から猫に関するところをざっくり説明すると、

「釈迦が間も無く亡くなることを聞いた釈迦の母親、摩耶夫人が天女を引き連れてあの世からやってきた。持ってきた薬を投げたが、沙羅双樹の木に引っかかってしまった。それを見たネズミが薬を釈迦に届けようとしたが、猫に食われてしまい、薬が届かず釈迦は亡くなった。だから、涅槃図には猫が描かれていない」

これを聞いて、先ほどの句を読み返すとまた面白さが増してくる。
「お前たち、いつまでそんなことにこだわっているんだい。しゃらくせえ。こっちは猫なんだから、ネズミがいれば食っちまうだろうがよ。それに、ゾウとか虎とか、いつもは動物界の頂点にふんぞりかえっている癖に、めそめそしやがって。こっちにきてみなよ、もっと楽しいことがいっぱいあるぜ」
そんな猫の声も聞こえてきそうだ。
なんだか猫の方がさっさと悟っている、そんな感じさえしてくる。

これは、読みが深まるということではない。
言うなれば、句と僕の間が近くなった。
僕の目の前に、この一句がより鮮明に立ち現れてきた。
そんな感じだろうか。

学校では、もっと深いところを読みなさいと言われた。
言葉の向こうに作者の意図を読み取りなさいと。
僕はいつも疑問に思っていた。

芸術は万人のものであるはずだ。
芸術は貴族のものだという議論は今はおいておく。
その万人のものであるはずの芸術が、より深いところを読まないと理解できないなんて、言葉で書かれているのにさらにその向こうを読めなんて、それでは、一部の天才にしか芸術はわからないものになってしまう。
深いところを読むまえに、まず、ここに書かれていることを味わったり、楽しんではいけないのだろうか。
それに、その書かれたものの向こうにいったい何があると言うんだろう。
きっとそこには、何もない。
あるのは、書かれたもののこちら側だけだ。

そんな風に考えていた。
だから、僕はいつも、言葉の向こうを読むのではなくて、こちら側を読むように心がけている。
結局は同じことを言っているのかもしれないけれども、見えもしない言葉の向こうよりも、見えるこちら側を信じたい。

よく行間を読めと言われる。
でも、もし本当に行間に文字が見えるようになったら、その人はさっさと病院に行った方がいい。
行間には普通、何もない。
むしろ、行間には、自分の言葉を書くべきだ。
行間も含めて、すべての余白は、自分の言葉を書くためにある。

言葉のこちら側というのも、いわば一種の余白のようなものなのかもしれない。
そこに自分の言葉を書いていく。
僕はいつも、そんなつもりで読んでいる。
小説や俳句を含めた詩歌だけでなく、映画や絵画などもそんなふうに考えて味わっている。

デュシャンの「泉」なんで、いくら深く見たって、トイレはトイレでしかない。
あるのは、その「トイレ」とその前にいる自分との空間だけだ。

句会でよく、「余白を残しなさい」と言われる。
芭蕉も「言いおおせて何かある」と言っている。
これも、同じことではないだろうかと思っている。
俳句は、句と読者の間に余白を作る文学。
それを埋めるのは読者。
句の向こうには何もない。

そう考えれば、難しいものなんてない。
書かれていること以上のことを求めるから難しいのであって、多分そんなものはどこにもない。
まずは書かれていることと、自分との余白をどうやって埋めていくか。
そこに何を書くか。
すぐに書かなくてもいいと思う。
余白を抱えていれば、いつか書ける日がくる。

言葉の向こうを探しても猫はいない。
そんなことをしている間に、猫をさっさと行ってしまっている。

※タイトル画像は、高台寺ウェブサイトより

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