「三浦瑠麗」という存在
別に三浦瑠麗氏について語るわけではない。
あの人が何をしたのか、そんなことには興味はない。
最近、テレビに顔を出さなくなったとか、めざまし8を4週連続で欠席したとか、それはどうでもよい。
テレビには出ないが、Twitterやインスタグラムでは相変わらず発信しているとか、深夜に夫以外の男性と腕を組んで歩いていたとか、そんなことにも興味はない。
え、十分興味あるやんて?
まあ、それはおいといて。
気になる記事を最近ネットで見かけることが多くなった。
つまり、「ポスト三浦瑠麗」は誰か。
そんな記事の中で名前が出てくるのは、学者であれ、評論家であれ、タレントであれ、元国会議員であれ、すべて女性だ。
そして、その理由はいろいろ書かれているものの、最終的には、
「三浦瑠麗と比較して、ビジュアル的にも引けをとらない」
つまり、マスコミ、特にテレビ局にとって三浦瑠麗氏とは、「国際政治学者」である前に、女だったのだ。
ビジュアルのいい女。
もしも三浦瑠麗氏が、国際政治学者の肩書き、もしくは、その論調から起用されていたのなら、その後任は、男性でも女性でも関係ないはずだ。
性別に関係なく、三浦瑠麗氏と少なくとも同程度のコメントのできる人物が候補に上がるはずだ。
結局、あの席は、「何か良さげなことを言う見栄えのいい女」の席であり、特に三浦瑠麗氏である必要はなかった。
国際政治学者でも、評論家でも、学者でもある必要はまったくなかった。
記事は、ライターの書いた記事であり、どこかのテレビ局が直接発表したものではない。
関係者はとなってはいるが、どこまで取材をしているかもあやしいものだ。
しかし、もしこれがテレビ局の考えだとしたらどうだろうか。
彼らは、SDGSやLGBTQ+に関するニュースを報道し、そのビジュアルのいい女性の出演する番組でも、それを推進することが必要だなどと言いながら、本当はそんなことなんかさらさら考えていないですよ、そんなことやってたら視聴率なんか取れないですからねという姿勢をさらけ出してしまっているのだ。
こうした問題を、女性はどのように考えているのだろう。
どんな分野であれ、まだまだ女性の数は少ないのだから、まずは女性ありきで選ぶべきだ。
でないと、テレビで意見を述べるのが男性に偏ってしまう。
それも、その通りかもしれない。
しかし、その時にビジュアル的にと言う判断は必要なのだろうか。
三浦瑠麗氏の出ていた、出ている?番組なんて、失礼ながら、めざまし8にしろ、朝まで生テレビにしろ、ワイドナショーにしろ、せいぜい報道の名を借りたバラエティー番組なので、目くじらをたてることなどないのかもしれないけれども。
て、結構見てるやん。