それ、ちょっとちゃうねんなあ
最近は東京の人が関西弁を使っているのをよく聞く。
大阪の芸人が東京に移住して全国ネットに顔を出すようになってからだろうか。
これほどいろいろ発達して、リモートだ、オンラインだと言っている時代に、芸人やタレントだけは東京に行かないと仕事がない、全国的に売れないというのもおかしなものだとは思うけれども。
さて、その東京人が使う関西弁、東京人と言ってもまあ、正確にはほとんどが関西以外の地方から東京に来て暮らしている人たち、そんな人たちが使う関西弁、聞いていて、なんかちゃうねんなあと思うことが多々ある。
その代表格が、
「知らんけど」
昨年のユーキャン新語・流行語大賞にもノミネートされていた。
今や流行と流行語、頻出語の区別もつかない流行語大賞には、何の価値もない。
昨年のノミネートを見ても、「キーウ」や「ヤクルト1000」などが入っている。
もちろん、「キーウ」は新聞でも、ニュースでもよく見かけたし、耳にした。
でも、流行語ではない。
「ヤクルト1000」もマツコのおかげで、売り切れ続出。
でも、これも話題にこそなったが、流行語ではない。
日常の会話で、
「今日はキーウだねえ」
「君はとってもヤクルト1000だよ」
そんなことは言わない。
だから、これが流行語って言われても、それ、ちょっとちゃうねんなあと思ってしまう。
そもそも、「キーウ」をノミネートして、仮に大賞をとったとして、「おめでとうございます」と誰に言うつもりだったのか。
もしも同じことが日本で起こっていれば、「TOKYO」を流行語にノミネートするのだろうか。
やっぱり、ちゃうねんなあ。
そして、この「知らんけど」
こんな関西では流行語でも何でもないものを、その存在すらあやふやな東京人が使い始めたからと言って、流行語大賞にノミネートする、「あら、知らんけどって関西の人は言うのね、よければ東京で使って差し上げてもよくってよ」、「東京こそすべての中心でございますのよ」、そんな姿勢が見え見えで、僕はもう呆れてしまっている。
この「知らんけど」については以前にも書いている。
書いていることを覚えているあたり、まだ僕の能は大丈夫そうだ。
しかし、この「知らんけど」の認識について、まだまだネイティブと東京で大きく違っているようなので、繰り返し書いてみみたい。
東京での使われ方は、責任逃れ、自分のいい加減さに対する自虐、そして、その先には、関西人て、ほら、こんないいい加減で無責任なんだよというイジリ。
でも、それは、ちょっとちゃうねんなあ。
多分、この「ちょっとちゃう」の微妙なニュアンスも、「少し違う」では表せない雰囲気、東京人には理解できないだろう、ネ。
さて、「知らんけど」
決して関西人は無責任なわけでも、いい加減なわけでもない。
自分の発言には、当然責任がある。
そんなことは、国会議員以外は当たり前だ。
しかし、人間だからすべてを知っているわけではない。
「多分こうやし、私もそう思うんです」
その、「多分」「思う」を包み込んでいるのが、「知らんけど」なのだ。
さらには、
「そんなはっきりわからんことを、ズバズバ言うてかんにんな」
そんな謙虚な気持ちも含まれている。
「知らんけど」は上からの言葉ではなくて、相手の下にもぐり込む、そんな言葉なのだ。
だから、正しい使い方は、
「明日は多分晴れやと思います。知らんけど」
ではなくて、
「明日は晴れやで。知らんけど」
そして、これには言い方がある。
「晴れやで」で息を抜いてはいけない。
「晴れやで知らんけど」と続けてもいけない。
「晴れやで」
そこでぐっと息を止めて表情を引き締める。
半拍ほどおく。
それから、いっきに「知らんけど」
だから、あなたの「知らんけど」
それ、ちょっとちゃうねんなあ。