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生活レベルって何だろう

noteに書いている僕の自己紹介に対して、クレームが入った。
妻からだ。

「普通の人、というよりは普通以下、中の下くらいの人です。社会的にも、人間的にも、生活レベルもそれくらい。
クリエーターとかITの人ではありません。ただのオヤジです。還暦はクリアしています。
作り話のタイトルは『 』です。
俳句初心者。俳号は緑 萃生」

これが僕の自己紹介文。
この中の生活レベルが「中の下くらい」が、駄目らしい。
要するに、もっと上だと言うのだ。
「あんたに、どれだけ贅沢させてるねん」

もちろん、こんな自己紹介文では、noteで営業活動している人でもなければ、普通は多少の謙遜をもって書くだろう。
僕だって「中の下」とは言いながら、もう少し上かなあとは思っている。
人間的にも、部分的には底辺に近いところもあるだろうが、平均すれば、「中の下」よりは上になるのではないかと、本心では思っている。
クレームの入った生活レベルにしても、吉野家やすき家くらいなら、メニューの値段を見ずに注文できる。
まあ、それがどのあたりに位置する生活なのかは、想像でしかないけれども。

そもそもだ。
そもそも、生活レベルって何なんだ。
よく生活レベルを上げる、下げると言われる。
急に収入が落ちた人に対して、
「生活レベルを落とすのは難しいからね」
などと、赤の他人が心配しているのをよく聞く。
この場合の生活レベルとは、主にお金に関することだろう。
例えば賃貸なら、家賃の低いところに急には住めない。
今まで回らない寿司屋に行っていた人は、回る寿司屋では満足できない。
天然もののウナギばかり食べてきた人は、すき家のウナ牛は口に合わない。
ましてや、うな次郎など。
あるいは、家中に一年中エアコンを効かせた生活から、うちわで凌ぐような生活には戻れないとか。

夕日を眺める漁師の話は有名だ。

毎日、必要なだけの魚を獲ってあとは、のんびり夕陽を眺めて暮らす漁師のもとに、ある日、コンサルタントが現れる。
彼は言う。
「あなたはもっと頑張って働かないといけない。そうすれば」
「そうすれば?」
「儲けが出て、大きな船が買える。誰かを雇って、もっとたくさんの魚を獲ればいい。そして、工場を建て、会社組織にする。ニューヨークに本社を移転して、君はマンハッタンの最上階のオフィスで指揮をとる。経営が軌道に乗れば、君は会社を人に任せ、巨万の富を手に引退すればいい。毎日、海辺でのんびりと夕陽を見ながら過ごすんだ」
「じゃあ、今とかわらないじゃないか」

簡単に書くとこんな話だが、さて、この漁師の生活レベルは、前と後ではどうなのだろうか。
生活レベルは上がったのか、下がったのか、それとも変わらないのか。

かつて、「一億総中流」と言われた時代があった。
1970年代に、国民の多くが自分の生活を中流と判断したことから、この言葉が生まれたらしい。
ただ、何をもって中流とするかの基準はない。
あくまでも、自己申告だ。
当時から、言われていた。
この「一億総中流」の意味する日本人の中流と、欧米の中流では、レベルが違うと。
つまり、日本人の思う中流など、欧米ではまだまだ下流だったのだ。
そうとは知らずに、休日に家族でスカイラークを訪れ、フォークとナイフでハンバーグステーキ食べ、ああ中流だと思っているうちに、日本はこんなになってしまった。
日本人は100円でこんなに素晴らしいものが作れるのですよと自慢していたのが、今では、日本人は100円のものしか買えないのかと笑われる。
かつては、舶来品、メイドイン欧米に憧れたものが、頑張って、メイドインジャパンの価値を欧米に知らしめた。
結果、メイドインジャパンは、高価となり、今ではなかなか庶民の手には入らなくなった。

結局、生活レベルなどというものは、近付けば遠のく蜃気楼のようなものだ。
自分でこうだと思っておいて、決してそれにこだわらず、満足もせず悲観もせず、よく狂う物差しくらい思っておけばいいのだ。
ハーゲンダッツが好きな時に食べられるようになったくらいで、俺の生活レベルも上がったかなあと思っている僕の物差しは、多分伸びきっているのだろう。
そんな伸びきった物差しで測ると、僕の生活は上の下くらいだろうか。
でも、ここは謙虚に、そして「鶏口となるも牛後となるなかれ」、中の上でいくことにしよう。
多分これで、妻も納得してくれるだろう。

「普通の人、というよりは普通以下、中の下くらいの人です。社会的にも、人間的にも、生活レベルもそれくらい。社会的にも人間的にも、それくらい。でも、生活レベルは中の上(当家比による)」

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