『ダニー・ボーイを聴く日』
彼と出会ったのは、小さな居酒屋だった。
その日は、会社の上司に誘われて飲んでいた。
誘われてとは言っても、もともとは私が相談事を持ちかけたのが始まりだった。
社内での人間関係が上手くいかずに、上司に応接室で話をした。
それが、就業時間の間際だったので、そのままもう少し話をしようということになった。
もし誘われれば、それもいいかなと思いながら飲んでいた。
上司にその気があったのかどうかはわからない。
とにかく、私はいつもよりも早いペースで飲んでいた。
トイレから戻ると、上司がからまれていた。
大柄な男に胸ぐらをつかまれて、青ざめていた。
私は、席に戻らずに遠くから見ていた。
そこに割って入ったのが、彼だ。
長身の彼は、2人の肩に手を乗せて笑いながら何か言った。
大柄な男は席に戻った。
上司は何枚かの札を置いて出ていった。
席に戻った私に彼が話しかけてきた。
「お連れさん?」
うなずくと、
「彼はひとりで帰らせてあげなさい」
そう言って、私のグラスにビールを注いだ。
私は会社を辞めた。
彼とは、映画を見たり、時々お酒を飲んだりした。
手をつないで歩くこともあった。
「中学生みたいね」と言うと
「俺はそのあたりでこっちの成長が止まっているから」
と、自分の頭を指差した。
彼が、そこそこの大学を出ていることは知っていた。
彼が何の仕事をしているのかは、わからなかった。
私も聞かなかったが。
すごく金まわりのいい時もあれば、私にせびる時もあった。
長身の彼が、両手を合わせて腰を曲げるのは見ものだった。
そうして、中学生みたいなつき合いが何年か続いた。
彼の車に乗ると、よくかかっている曲があった。
「ダニー・ボーイ」だと教えられた。
彼が故郷に帰ることになった。
彼がついてきてと言えば、ついて行っただろう。
彼は言わなかった。
私がついていくと言えば、彼はどうしただろうか。
窓際の席で缶ビールを開ける彼を、私は見送った。
照れ臭そうに、彼は少しだけ笑った。
そんな日々は、やがて私の中で、小さな点としてまとまり、記憶の中に居場所を見つけて落ち着いた。
あの日、私は彼の故郷の街が消えて行くのを夫とともに見つめていた。
空からの映像の中で、彼の街はみるみるうちに消えてしまった。
私の中の小さな点が、少し膨らみを増していた。
それが膨らみすぎないように、目をそらした。
「ひどいね」
夫が言った。
「そうね」
と答えた。
私の頭の中の膨らみから、あの曲が流れ出していた。
夫には聞こえないだろうか。
あの曲は、何度も何度も繰り返し流れた。
その後、彼を探そうと思えばできただろう。
安否を確認することもできただろう。
しかし、私はそうしなかった。
きっと、私のような人はたくさんいるに違いない。
そうしない代わりに、私はあの曲を聴くことにした。
毎年3月11日、私は「ダニー・ボーイ」を聴く。
別に珍しいことではないだろう。
きっと、私のような人はたくさんいるに違いない。
故郷に帰る前の晩、彼は言った。
「俺、刺青があるんだよ」
刺青はなかった。