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「問い」について、経営者として考えてみる

「問い」。人は日々誰かに、または自分自身に問いかけています。
会社の成長や存続や組織のバランス、顧客や社員の満足に責任を負わざるを得ない経営者であれば、その分問いの数は増えるばかりな気が致します。
今日はそんな「問い」について考えてみたいと思います。

どうして?なんで?

「どうして?」
「なんで?」
部下、社員に対して毎日何回、この問いを投げかけたでしょうか?
実際に数えたことはないのですが、
誰かと何かを話していれば、少なくとも1度は言葉にしていた気がします。

シンプルに疑問に思うこともあれば、
より考えることを促す意図でした場合もあります。
それに対しての答えに「なるほど」と納得できることもあれば、
よく理解できなくて、さらに問いを繰り返すこともありました。
曖昧なまま終われば、却下としたり、もう少し考えてみようとなって終わることもあります。

ただ、そんなやり取りで思うことは、
社員からの提案や要望に対して、
ただ単に「了解」や「却下」と結論を出すよりも、
双方の考え方への理解が深まったり、持っている情報の共有ができたかなという思いがあります。


どうなったらいいだろう?どうしたらいいだろう?

一方で問いは自分自身の内面で交わされる場面もあります。
私に関して言えば、圧倒的にこちらの時間が多かったです。
売上のこと、利益のこと、
社員のこと、組織のこと、
お客様のこと、取引先のこと、
自分自身のこと、社会の一員としてのこと、

結局自分はどうしたいのか?

堂々巡りも多々ありますが、
まずは自分がどうしたいのか?が最後の拠り所になるなあと思うのです。

社長の仕事は一言でいえば最終判断をすることです。
判断するということは、何かしらの判断基準があるわけで、
それは客観的データや社会情勢や市況やトレンドや、なんて様々な要因があるわけですが、
とどのつまりは、それらを参考に
自分はどうしたいのか?
自分はどうなったらいいと思うか?
という問いに答えることで、最終判断となっていたなと思います。

社長の「どうしたい」という考えは会社にとってすごく大切なことになりますし、
そこで働く社員にとってもすっごく影響大なこととなります。

うわ、責任重大だ。

どうしてそう思うのだろう?

自分がどうしたい、というのが分かったとして、
ここでさらに疑問が浮かびます。

なんで自分はそのように思ったのだろう?

自分がこうしたいと思う理由はなんだったんだろう?という問いです。

だってそれがいいに決まっている。
皆もそれがいいと思っているに違いない。

と思えればそれでいいのかもしれません。
が、しかし、そんな風に思えない自分がいます。

どうしてそうしたいと思ったのですか?と訊かれたら、
ちゃんと理由を答えられないと、と思うのです。
なぜなら、
自分が社員だった時、そんなことをいつも思っていたからです。
もちろんきちんと理由を答えてくれた人もいます。

しかし、
「口答えするな」とか
「つべこべ言うな」とか
挙句に「黙って言われ事やってりゃいいんだよ」なんて言われたこともありました。
(社会人になってからと言うよりも、学生時代の記憶の方が多いかもですが)
何の納得感もなく、何の学習もなく、何の共感すらない。
ただひたすらに命令されているみたい。
そんな状態がただただ大嫌いなんですね。

そんなわけで、ちゃんと自分がどう思う理由を考えて、
それを説明できるようにしておきたいという癖がついてしまったのかもしれません。

では、
私はなんで命令されている感が嫌いだと思うのだろう?
なんて自分への問いがまた生まれてきます。
キリがなくなるので、自分への問いはこれくらいにしておきますが、
こんな感じで延々と自分への問いを繰り返してきたなあと思います。

あの人はどう思うかな?

問いは無限です。
自分のこうしたい、なぜならこうだから。という判断について、考えてると、
その判断に対して周囲はどう思うかな?
という問いが生まれて来てしまいます。

私が判断して私自身がその判断に基づき自ら行動するのであれば、そこまで考える必要はないです。
一方で私の判断によって、他の誰かが行動をして結果を出すというプロセスであれば、
そこを無視するわけには行きません。
実際に行動する誰かが、その判断と理由を納得できていないと、
その結果のクオリティが落ちるからです。
仕事なんだから、そんな理由でクオリティを落とすなんてもっての外だ、という理屈もありますが、
いやいや、それは無理というものだと思うのです。
やらされてやったものと、
やりたいと思ってやったもののクオリティが同じはずはないと思うからです。

百歩譲って見た目は同じに見えたとしても、
その結果が創り出す影響力や感動といったものには大きな違いが出るはずだというのが私の考えです。
もっともこの辺は客観というよりも私の思想的なものが背景なので、事実としての断言はできません。
少なくとも私は、やらされた感アリアリの成果に感動できないタイプなのです。

そんな気質なので、
実際に行動する人が、私の判断によって生じた「業務指示」に対して、
どう感じているかを考えておくことは、
私にとってとても大切な問いとなります。

その行動する人がひとりなら、そのひとりのことを想像して問いに向き合えばいいのですが、
複数の人が、となると大変です。
その複数の人それぞれがどう思うか、という問いに向き合わなければならなくなるからです。

もはや問いの海に溺れそうです。

実際に溺れた…そして

なんか、愚か者の堂々巡りの話になってきて申し訳ないのですが、
もう少しお付き合いください。

皆さんの想像通り、
私、本当に問いの海に溺れました。
なぜ溺れたかというと、ひとり想像して答えを導こうとしたからなんですね。
想像なので、正解がわからない。
答え合わせは出たとこ勝負です。

なので自分なりに出した解決策は
対話だったのです。
想像に自信が持てないということは、
その相手のことがよく分かってないから自信が持てないということです。
よくわかっていれば、ある程度は想像がつきます。
もし違っていたとしても、想像できるくらいの関係性があれば、違っても対立にはならない。

対話を通して指示をだすわけではありません。
それでは対話でなくなってしまいます。

対話を通して、その人の思考やその思考の背景などをお互いに知っているというのが大事なんだと気づいた感じです。
相手側からしても、私がこういう最終判断をするというのが予想できる状態になっていれば尚良しです。
「そう言うと思ってましたよ~!」
となれば話が早い。
時に「そっちで来ましたか~」なんてリアクションもアクセントです。
いずれも相手からすればいい意味で想定内という話で、
一定の納得感を得られているわけです。

もし「まさかそんな判断をするとは思ってませんでした」となれば、
それはそれで、次の対話のテーマと思えばそれもまたよし!という感じ。

こうやって相互理解、関係性の質を高めていくことで、
自分への問い、誰かへの問いのクオリティが高まったかもなあと思います。
もっと言えば、関係性の質の高さが思考の質を高めるというのが成功循環ですが、
この思考の質の高さというのは、問いの質の高さと言い換えてもよいのではと思います。

成功循環においてグッドサイクルを回すということは、
自分の問い、誰かへの問いを考えるということと、
自分からの問い、誰かからの問いにどう考えるか、
ということがひとつのポイントなのではと思うに至りました。

問いと答えを予想する

さて、問いについて考えてみれば、答えとは何かということにも考えが発展しますね。
問いには答えがセットです。
必ずしもではないですが、問答という言葉があるくらいなので一応その前提の話ということで。

自分のこの問いに対して、誰かはなんて答えるか?
あの誰かはきっと私にこんな問いを投げてくる、そしたら私はどう答えようか。

相手と行う問答には、ある意味、想像というか予想もついてくるなと思ったりします。
誰かのことを想像して、今の状況を鑑みて、こんな問いをしたらこんな答えが返ってくるのではないか?
という感じです。
予想があたるとなんか嬉しいし、外れたら外れたで相手をさらに良く知れた!とも思えてくる。
この辺の予想とその答え合わせが出来るというのも、
個人的に好きなやり取りだなあと思います。(競馬かよっ!)

一方、名経営者と言われる人は、この問答の名手だなと思えてきます。

こういう答えをして欲しい。そのためにはどんな問いをするのが最適か?
なんていう考え方もできるからです。

私もそんなに上手く使えたわけではありませんが、
自発的に言って欲しい言葉、或いは個人の意思決定を意図して、
誰かへの問いの仕方、順番を工夫するという技術もあると思います。
言い換えれば、
問いを使って、内発的動機を覚醒する、とでも言いましょうか。

優れた経営者だなあとか、すぐれたリーダーだなあ、と思う人に
そういう技術に長けていると感じたこともあります。
気が付いたらやる気になっていた(やる気にさせらていた)という話法に、
上手いなあと感心させられた経験を持つ人も少なくないのでは?

問いというのは実に奥深いですね。
そして「考える」ということは、
まさに問いを持ち続けるということではないか、
なんてすら思えてきてしまいました。

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