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あの人が教えてくれるもの⑪:西園寺公望

あの人が教えてくれるものシリーズの第十一回は、”最後の元老”として日本の中枢に君臨し、大正から昭和の日本の舵取りに大きな影響を与え続けた西園寺公望(1849/12/7-1940/11/24)の生涯を俯瞰して思うことです。

西園寺公望

国葬された人物

2022年9月27日、今年7月に凶弾に倒れた安倍元首相の国葬が行われました。本日の記事で取り上げる西園寺公望も、国葬された人物であり、会場の日比谷公園には数万人、晩年を過ごした静岡県・興津の坐漁荘には8,000人もの人々が弔問に訪れたという記録が残っています。

歴史を齧る過程でその名前を知る程度で、その人物像にさして興味を抱いていなかった西園寺公望の生涯を調べることになったきっかけは、偶然です。私は、日本が近代国家へと進む礎を築いた最重要人物は、大久保利通だと考えています。その観点で日本史を辿っていく内に、引っ掛かってきたのが西園寺でした。

富国強兵、殖産興業で近代化を進め、日清戦争、日露戦争に勝利し、第一次世界大戦で漁夫の利を得て、国際社会の中で階段を駆け上っていく中で、常に政治の表舞台の中心に地位を得て、良くも悪くも日本の盛衰に影響を与える決断に立ち会っていたのが西園寺ではないか、という思いを持ちました。

史上稀な幸運な人物

調べる過程で、不遜な言い方ですが、西園寺ほど恵まれた人生を歩んだ人はそうはいない、という印象を、私は持ちました。

天皇家にも近い由緒正しき清華家の家柄の一つ、徳大寺家の次男に生まれ、2歳で同じく清華家の西園寺家の養子になります。1868年19歳の時に、旧知の岩倉具視から推挙されて参与に抜擢され、新政府軍側の指揮官として戊辰戦争に参加しています。

大村益次郎の推薦で1870年12月からは官費でのパリ留学を経験しています。以降の約10年間はソルボンヌ大学などで学ぶ一方、パリで放蕩生活をしていたと言われています。家柄に恵まれ、刻苦勉励することから免除された特権階級ならではの生き方のように思います。同時期の留学仲間の中江兆民や松田正久、後にフランス大統領となるクレマンソーらとも親交を結んでいます。

約10年間のパリ留学を終えて帰国し、しばらくブラブラと遊んでいた所、旧友の松田の誘いを受けて、いきなり東洋自由新聞社の社長に就任しています。その後、政府に官職を得て働いている際に、実力者の伊藤博文のヨーロッパ歴訪に随行して知遇を得たことが、後の人生で活きます。1885年からはオーストラリア=ハンガリー帝国公使になり、ウィーン滞在中に、後の外務大臣・陸奥宗光とも親交ができます。1888年からのドイツ帝国兼ベルギー公使時代は、暇で1年の3分の1は、馴染みのあるパリで過ごしていたと言われます。

40歳くらいまでの西園寺の人生前半の過ごし方は、私から見ると理想的で、羨ましい限りです。家柄に恵まれ、外遊し、多忙ではあったものの、貧困に苦しんだとの記述は見当たりません。晩年の大出世へと繋がる有力者との人間関係も、この頃までにしっかりと築かれています。

大政治家への躍進

ヨーロッパから帰国後しばらくは閑職をあてがわれて不遇を味わった時期もあったものの、実力者伊藤博文の引き立てもあり、政府内で頭角を現していきます。1894年に病気で辞任した井上毅の後任の文部大臣に就任すると、その後は政府中枢で順調に出世街道を歩んでいきます。

1900年の立憲政友会の旗揚げに参画し、第4次伊藤内閣では、無任所大臣として入閣し、病気の伊藤に代わって、事実上の宰相を務めました。実力政治家として一目置かれる存在になっていった訳です。

1901年から1913年までの10年あまりは、山県有朋を後ろ盾とする桂太郎と、伊藤博文の後継者として立憲政友会総裁になった西園寺とが、交互に政権を担当する『桂園時代』と言われます。ただし、首相として政権担当時の力量と実績は、必ずしも群を抜いたものでもなさそうです。

第一次世界大戦終戦後の会議には、日本の全権大使として遅れて参加するものの、既に大勢は決した後で、会議では一度も発言していないとも言われています。いわば、「おいしい」役回りを存分に味わい尽くした幸運の人のように見えてきてしまいます。

本領発揮 唯一の元老

西園寺の政治的影響力が一段と増すのは、天皇を輔弼する元老に取り立てられて以降でしょう。1921年に原敬が暗殺され、1922年に山県有朋が病死、1924年に松方正義が死亡すると、唯一の元老として、辣腕を奮い、後継首班の選定に多大な影響を行使し続けました。元老システムを構築し、運用していたのは、西園寺その人です。

この元老時代が、西園寺の真骨頂だったかもしれません。「冷淡で、淡泊」「皮肉屋で、評論家的」という性格は、現場の長として物事にあたるには不向きでも、一歩引いた場所で、陰に陽に影響力を行使する役割は向いていたのでしょう。

最高権力者に引き立てられる、冷静で公正な調停者(に見せる)といった資質も見逃せません。清濁合せ飲む狡猾さ、巧妙に物事を進める大局観、危険な問題からは距離を置いて逃げる嗅覚、も持ち合わせています。日本で権力者として君臨する一つのモデルとして大変興味深い人物です。

教育者としての功績も知られ、立命館の創始者の一人でもあります。

政治信条や手法などは、もう少し専門書で調べてみる余地があります。昭和天皇の政治関与の姿勢にも影響を与えていると言われています。

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