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名言が与えてくれるもの⑧:弱気は最大の敵
誰もが心に響くことばを持っていると思います。『名言が与えてくれるもの』シリーズの第8回は『弱気は最大の敵』です。”炎のストッパー”と呼ばれて愛された津田恒美投手が、大事にしていた言葉です。
体調不良で偶然出会ったことば
昨日海外出張から帰国して自宅に着いた後、体調不良に見舞われました。胸がムカムカして、食欲が無く、軽い悪寒もありました。長旅の疲労が蓄積して身体が弱っている時に、食べたものの何かが影響したのでしょう。これは無理をせずに、"休め"のサインです。
一晩ゆっくり眠っても、まだ万全とは言い切れない感覚が残っていました。大事を取って、今日は終日家で安静にすることにしました。妻と息子が出掛けるのを見送った後、物思いに耽ったり、テレビを観たり、布団に寝転がったり、と怠惰に過ごしました。息子が生まれてから、週末は家族と過ごすのが常だったので、自宅で自分ひとりで過ごすのは珍しい経験でした。
この偶然の体調不良がなければ、津田投手を思い出すこともなく、このことばにも出会わなかったかもしれません。
剛腕・津田恒美 そして病魔との闘い
津田投手は、山口県の南陽工業高校時代に春夏の甲子園に出場し、本格派の投手として活躍し、注目されました。卒業後は実業団の協和発酵を経て、1981年のドラフト1位で広島東洋カープへと入団します。
プロ野球ではルーキーイヤーから活躍し、11勝6敗の成績を収め、セ・リーグの新人王を獲得しました。2年目以降は、右手中指の血行障害や右肩痛などで長らく離脱していたものの、1986年に抑え投手として復活します。この年の活躍で、カムバック賞を受賞しています。全盛期には150㎞を超える直球真っ向勝負で、並み居る強打者を封じ込んで来ました。代名詞である「炎のストッパー」はこの頃についたものです。
その後1990年シーズンに度重なる怪我による離脱と体調不良が起こり、1991年に病魔進行により、引退を余儀なくされます。その後入退院を繰り返す闘病生活を送ったものの、1993年に悪性の脳腫瘍により32歳の若さでこの世を去りました。プロ野球選手としての実働期間は短かったものの、記録よりもファンの記憶に強く残る選手です。今でも野球ファンの間では、マウンド上で気迫を剥き出しにして躍動する姿と唸る快速球が語り草になっています。
津田恒美を思い出すきっかけ
その津田投手の一人息子の津田大毅さんが、クラウドファンディングで、津田恒美記念館を広島にオープンされるというニュースを見つけました。興味が湧き、色々と調べていたら、YouTubeでNHKスペシャルの再放送『もう一度投げたかった~炎のストッパー・津田恒美の直球人生』に辿り着きました。1994年5月15日、津田投手が亡くなった約1年後に放送されたものです。
闘病の記録に加えて、人間・津田恒美の人生に迫った内容で、突然襲われた病魔で大好きな野球を諦めざるをえなかった悔しさ、最愛の家族を残して旅立たねばならない無念に、同じく一人息子を持つ身である私は涙が止まりませんでした。
弱気は最大の敵 それは人生でも同じ
弱気は最大の敵、ということばの原点となる夏の甲子園での出来事も興味深かったです。
私の脳裏に、マウンドで躍動する全盛期の津田投手の雄姿が甦りました。責任感の強い選手だったようです。誰もが持っている弱気を抑圧して、短い人生を走り抜けていかれました。
「弱気は最大の敵」シンプルですが、深くてスゴくいいと思います。
弱気が不安を生み、不安が結果を左右する…… 何かを背負って日々闘う人間を励ます強いことばだと感じます。
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