無理矢理捻り出した目標
本日は、私の2日前の投稿『時間を消費している感覚』で課題と認識した「目標の不在」を埋める為、『無理矢理捻り出した目標』を簡単に検証してみようと思います。
教養人になること
当時は恥ずかしくて公言できず、今でも十分に恥ずかしいですが、私が20代初頭に掲げた目標は、知性を磨き上げて「教養人になること」でした。博学の徒で、難しいことを語るインテリに憧れを抱いていました。学校の勉強はそこそこやれていたものの、自分には一般教養や知性や芸術的才能が圧倒的に不足していることを自覚していました。同年代の趣味や育ちの似ている気の合う仲間とばかり付き合っていて、狭い世界で生きていたことも原因だったと思います。
私の育った時代には、カントやマルクスを読んで思想を語るような風潮は消え失せていましたが、中学生の頃は、浅田彰『構造と力』に代表されるようなネオアカ(ネオアカデミック)ブームがありました。周囲から影響を受け易く、負けず嫌いな性格の私は、いつか名著と言われる難しい思想書や哲学書を読みこなして、尊敬を受けたいという邪な野心を抱いていました。その野望は実行されることなく、現在に至っています。
当時を思い返して、目標を「教養人」に定めるのも、悪くないなと感じ始めました。
教養人の定義
教養人とはどうなったらなれるのでしょう? まず、「教養」の辞書的な意味を確認しておきます。
教養を身に付けている人を教養人と呼ぶと捉えるのであれば、どうやら、知識・学識に優れるだけではなく、人間的にも深みのある人物になることが求められているようです。なかなかにハードルの高い目標であり、挑戦しがいのある目標のような気がしてきました。
教養人に近付く為の習慣
教養人ということばから真っ先に思い浮かぶのは、読書の習慣でしょう。読む本の選択も重要で、ビジネス書や金儲け関連の本では、薄っぺらさが際立ってしまいます。哲学書や思想書、歴史に関する書物などが該当しそうです。思索にふける為には、時間と精神に余裕も必要でしょう。
私の【教養人プロジェクト】は、計画を立ててしっかり進めていきたいと思います。反知性が跋扈しつつあるように見える昨今の社会風潮に逆行して、精神の豊かさを追求するのも悪くない選択だと思います。