【続】言葉に宿る深遠な力「言霊」で幸せをつかむ方法 ① 地震の被害を避けられる呪(まじな)い歌
言霊の幸わう国
日本人は古から言葉には霊力が宿り、「良い言葉は吉事を招き、悪い言葉は凶事を招く」と信じて来ました。
言葉の「言」とは「事」であり、言葉として発すれば全てそれが現実に起こると考えたのです。
こうした言葉による働きを「言霊(ことだま)」と呼んでいました。
奈良時代末期に成立した『万葉集』には、「言霊(または、事霊)」について四句が詠まれています。
その中でも、最も有名なのは奈良時代初期の貴族で歌人の、山上憶良(やまのうえのおくら)が詠んだ、以下の句でしょう。
日本は、「言霊の幸わう国」であると形容されています。
神の言葉
言霊の中でも、和歌は「神の言葉」として、とりわけ古代の人々にとって重要な意味を持っていました。
『古今和歌集』の選者の1人で、平安時代前期から中期の貴族、歌人だった紀貫之(きのつらゆき)は、その序文『古今和歌集仮名序』で、和歌、つまり言霊の力をこのように表現しています。
力をも入れずして天地(あめつち)を動かし
目に見えぬ鬼神(おにがみ)をもあはれと思はせ
男女(をとこをむな)のなかをもやはらげ
猛きもののふの心をもなぐさむるは歌なり
それは、力を要せずとも天と地をも動かし得るものであり、目には見えない鬼神(霊)をも感動させ、男女の仲をも取り持ち、猛々しい武士の心をも落ち着かせるものであると・・・
明治中期から昭和初期にかけて活躍した民俗学者、国文学者であった折口信夫(おりくちしのぶ・のぶを)は、「歌(うた)」の語源は、「訴える」にあると説きました。
神に"訴える"言葉であるから、「歌」だというのです。
「言霊」に関しては以下のコラムも併せてご参照下さい
言霊学の発生
神の言葉たる「言霊」に秘められた大いなる神秘の力。
それは、純然と後世に語り継がれていきます。
江戸時代になると、由緒正しき古社などから封印されていた古文書の数々が日の目を見るようになり、言霊の真の意味を解明しようという動きが活発化したのです。
その先駆者となるのが、山口志道(やまぐちしどう)。
伏見稲荷神社(現在の伏見稲荷大社)の社家の流れを汲む、荷田訓之(かだののりゆき)に『稲荷古伝』を伝授され、その研究に没頭。
五十音と仮名の成立は、宇宙や国土の生成、神霊の発現に関わるとする「神代学」といわれる独自の言霊学を構築しました。
山口家に伝わる『布斗麻邇御霊(ふとまにのみたま)』または、『火凝霊(かごたま)』と呼ばれる秘図を元に、『古事記』の再解釈を行った著書『水穂伝(みずほのつたえ)』は、言霊学の原点ともいえるものです。
その後、人が発する75の音には、その声ごとに「霊」が備わっていると解釈し、言霊を曼荼羅図化した、中村孝道(なかむらこうどう)をはじめとする学者、神道家たちが言霊のもつ神秘的な呪力について、解明、研鑽を続けて来たのです。
神咒
神秘的な"呪力"・・・、漢字だけを見ると、それは「呪(のろ)いの力」であると誤解される方も多いかもしれませんが、そうではありません。
「呪」は、一字で「まじない」と読みます。
「まじない」と聞けば、西洋的な「魔法」をイメージする方も多いと思います。
「まじない」は、正確には「神仏などのもつ神秘的な威力をもって、禍や穢れを祓う」ことをいいます。
その神威を「発動」させるのは、「神咒(かじり)」と呼ばれる言霊です。
「呪」の古字は、「咒」。
まさに、神の言葉なのです。
これまで『言葉に宿る深遠な力「言霊」で幸せをつかむ方法』と題して、10の神咒をご紹介して来ました。
大変ご好評を頂き、コラムを参考に実践して効果が現れたという方もいらっしゃいました。
今回から、その続編として、また新たな神咒をいくつかご紹介致します。
地震の被害を避けられる呪(まじな)い歌
東京ドーム15個分ともいわれる「鹿島神宮(茨城県鹿島市宮中)」の広大な境内地の一角に、「要石」と呼ばれる石があります。
この石は、地中深くまで埋まっており、地震を起こすナマズの頭を押さえ付けているというのです。
「水戸黄門」などテレビドラマの題材にもなった徳川光圀は、7日7晩にわたって要石の周囲を掘り返しましたが、底に達することはありませんでした。
そればかりか、作業にあたった者が次々と怪我に見舞われるという事態に至ったことが、水戸黄門漫遊記の起源として知られる、『黄門仁徳録(宝暦年間)』に記されています。
鎌倉時代に成立した鹿島神宮の由緒が書かれた『鹿島宮社例伝記』によれば、この要石は地球の最も深い部分である「金輪際」から生えている柱とされています。
この柱によって、日本は繋ぎ止められているといいます。
「金輪際」とは、仏教の「須弥山(しゅみせん)」といわれる世界観において、大地の一番底の部分を指しています。
大地は、虚空に浮かぶ「風輪」「水輪」「金輪」の上に乗っているという考え方です。
「金輪」の最下面が、大地に接する "際" となっていることから「金輪際」というわけです。
これが転じて、「底の底」「絶対に」「断じて」などと表現する場合に、「金輪際・・・」というようになったのです。
この要石に対する呪いの歌が、以下のものです。
この歌を紙に書写し、3回唱えたのち、門に貼れば地震の被害から逃れられるという風習が江戸時代に広まりました。
公家日記である『言経卿記』には、文禄5年(1596)に発生した京都・伏見地震に関する記述があります。
この中に、地震発生後に町々では三種の歌が紙に書かれて、各家の軒先に貼り付けてあったと書かれているのです。その一つが「要石の歌」でした。
『言経卿記』に見る文禄五年伏見地震での震災対応 -特に「和歌を押す」行為について-
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