【思考雑記③】 考える事と書く事 〜論理的に書く事の意味を考えてみる〜
思考雑記と銘打ってさぁ書くぞ!
と意気込んでもう1ヶ月。
第2回で自分がなぜ遅筆であるか、
その原因を自己分析っぽく書いてみたは良いものの、
自分の筆の進まなさに辛い気持ちになる日々を送っています。
書こうとした事で自分の思考の甘さと向き合う事になる
色々と書きたいことは思い浮かぶんです。
そもそも考えるということについて整理したいし、今の色々不安な社会のことも書きたい、考えることの出発点となる自分への問いかけもやりたい、今脅かされている人権や憲法についても歴史を交えて書きたい・・・
それらは自分が生きている中で知った事・考えている事であったり、お世話になっている哲学の先生から学んだこと、関わり合う人から学んだこと、本や映画で知ったこと、そうして集積した価値観の中で、これは書き留めたいと思える大事な事を書きたいと思っています。
でもそれを人に向けて書こうとすると、中々一つの記事として上手く文章化できない・・・。
自分の考えを人に向けて書く、と言う事をあまりやっていなかったので、
そんな予感はしていたのだけれど、やっぱりこれはとてもショッキング。
要するに、自分の思考の甘さ、無知が露呈してしまったワケです。
自分の考えを人に向けて書くと言う事
ここで言う一つの記事として上手く文章化できない、と言うのは、
自分の考えや主張の一つ一つに、それが何故そう書けるのか、
人に伝わるよう理由を書くと言う事です。
自分の考えをまずは自分の中で言語化し、矛盾や飛躍のない筋道を立てて書く、と言う事です。
要するに、正しく思考した上で、人に向けて書きたい、伝えたいと言う事です。
いわゆる論理的に書きたい、という言葉をここでは使います。
もし、会社で自分の上司から、自分の納得のいかない指示を受けた時に、
自分が上司に「何故ですか?」と聞いてみたとして、上司が理由も答えずに
「良いから黙って従いなさい」と言われると、誰だって嫌だと思います。
文章も同様に、自分の考えや主張を書くからには、
「そう書くのは何故ですか?」に答えられるような、
読む人が理解のできる、納得のできる論理的な文章を書く必要があります。
論理的に書く必要性
論理的に書く方法は色々とありますが、今回はまずあえてその必要性の理由を書きたいと思います。その為に読み手を下記2種類に分別して考えてみようと思います。
①自分の考えや主張に対して、元々合わない考えを持っていた人、及び関心が無かった人
②自分の考えや主張に対して、元々合う考えを持っている人、及び関心を持っている人
論理的な文章を書く必要性は、上記のいずれの読み手に対しても必要だろうと思います。
①元々意見が合わない人、及び関心を持っていない人
①の元々意見が合わない人、及び関心を持っていない人に対しては、その辺のただのオッサンの主張を理由も書かずに書いただけの私の文章が伝わる可能性は限りなく低いでしょう。
また、例えば、読み手Aがブラック企業に勤めていたとして、もし私が彼の上司だったのならば、自分の主張を彼に理由も言わずに無理矢理合わせさせる事ができるかもしれない。
それがもし、自分の主張の理由を正しく言語化できていない無根拠の状態で、相手に合わせさせていたのならば、その主張が間違っている可能性は多いにありえます。
それが読み手Aの労働を徒労に終わらせるものだけの結果に繋がれば「理不尽」というやつでしょう。
元々意見が合わない人や関心を持っていない人に対して、論理的に書かずに主張だけ書いても、まず伝わらない事、そして、
仮に何らかの方法で論理的でも無いのに伝わったとしても、過ちの要因になり得る事を書きました。
②元々意見が合う人、関心を持っている人
自分の考えや主張に対して、元々意見が合う人やそのトピックに関心を持っている人に対してなら、論理的に書かずとも、はっきりとした理由を書かずとも、賛同してくれるかもしれません。
いいね!を押してくれるかもしれません。それで良いかもしれません。
しかし、もし、自分の考えが甘く、誤ったものだったらどうでしょう。
SNSのX(旧Twitter)を例に見渡すと、差別的発言や弱者への攻撃といった、私からしたら見るに堪えない主張に沢山のリポストやいいねが付いている事がよくあります。
まず発信者に対してはよく考えて発信していないだろう、あるいは悪意があるだろうと疑います。
そしてそれに多くの肯定的な反応がついている事も驚きです。
多様な考えや主張が流れるSNSの中で、少なくともある立場からすれば
明らかに間違っていたり、非人道的な主張が肯定的にバズる事は往々にしてあります。
共感の危うさ
SNSのマーケティング術で「エモーショナルマーケティング」というものがあり、リポストやいいねを稼ぐには、いかに人々から「共感」を集めるのかが重要と言われています。
SNSを少し観察すればわかるように、いいねやリポストの原動力・主力は「共感」です。
何かの主張に対するツイートと共感の関係で言えば、
自分が思っている事と同じだと感じる感情、その「気持ち良さ」です。
誰かと意見が合うことが嬉しいのは、誰しも同じだと思います。
普段主張する場面が無く密かに思っていることを、誰かが言ってくれているととても嬉しい、私も含め皆さんによくある経験ではないでしょうか。
共感は一見優しい感情であるようで、人間の残酷さの根源でもあると言うのは、人文知を知ろうとするとよく出会う知識です。
人の感情は、優しいものだけでは無いからです。感情的に動いていった結果、悲惨な結末を迎えるという物語も多くあります。
(この事は詳しくは別の記事で書きたいと思います。)
要するに、自分の主張を一つ一つ言語化して考え抜いた訳でもない文章が、たまたま元々意見が合う人やそのトピックに関心を持っている人に共感を得ても、それは最良とは言えないのでは無いだろうか、と言いたいのです。
要するに正しく考える事の大切さ
賛同してくれた人も、自分が何故そう思っているのか、正しく言語化していない。何となくそうだと共感したから賛同している。
そういった曖昧な思考のもとで共感が、人が集まると、カルト的集団のような、みんながみんな間違っている方向へ向かっていく集団が出来上がってしまうかもしれない。
実際に、世の中にはそう言った危うい集団が色々とあります。
私の文章で多くの人が賛同してくれて、すごい集団ができあがるかも・・・なんて自惚れた事が言いたいのではないです。
私は自分の思考や主張を書くからには、自分の考えを丁寧に言語化し、矛盾や飛躍のない筋道を立てて書きたい、そしてそれを俯瞰して、自分がまずは自分で正しいと思える、人に向けても良いなと思える文章を書きたい、と言う事です。
また、上記のような思考を頭の中だけでできる人は、一部の相当頭の良い人だけだそうです。よく悩みはノートに書き出せと言いますよね。
今回は論理的、と言う言葉を使っていますが、要するに、書く事の力を借りて正しく考えたいと言う事です。
前回書いたように、自分が遅筆になる要因であるハードル上げをまたやってしまっている気がします・・・。
論理的でも伝わらないかもだけど、まずは論理的に考える事は大切
ここまで書いて、論理的に文章を書いたとしても、人に伝わらない可能性は多いにあります。
正しい主張でも伝わらない事のこと。伝える為にもちうる根拠を提示するための書物や先人の言葉の引用すること、映画や漫画といった表現手段のこと。
でもやっぱり根っこは正しく考える事が大事。
そもそも論理的に、正しく考えるとはどういう事か。
そういった事も書いていきたいと思います。
長文お付き合いいただきありがとうございました。
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