ひきこもり日記*共感ばかりではなぐさめにならない
最近、共感を求めてるじぶんがいて、その反面で共感ばかり求めて成長がないように思える友人のことを思っていた。
「わかるよー。つらいよねー」と傷を舐め合い、前に進まず”わたしはわたしでいいの”だと、自己肯定をこじらせる。
確かにつらいときに誰もわかってもらえないと思うのは、孤独を通り越して暗黒の世界に放り出されて身動きができない状態みたいに感じるし、誰かひとりでもわかってくれると思えば生きていける。
今、共感ビジネスという生きづらさに悩んだ人をカモにしたビジネスが流行ってるらしい。生きづらさを経験したわたしだからこそ同じ悩みをかかえる人に寄り添い支えになります、みたいな。
思ってた友人もつらい経験があってそれを乗り越え、今はしっかり生きてるように見える。わたしはつい人のことはわかってしまう。空気を読みすぎなくらいに共感する。「すごい乗り越え方!さすがだね」
ハタとその人と離れて考える。わたしのことはどのくらいわかってる?被害者と加害者と傍観者にどのくらい寄り添っている?わたしは傍観者で味方ではないよ。味方したいけどそれはあなたの問題で、わたしは何もできない。わたしが「こうしたほうがいい」と過去の経験からアドバイスしたとしても、それはわたしの問題解決だから、あなたにはあなたの解決方法があるはず。
でもそれがわからなくて、冷たくされたと思い込む。
先週書いたこの記事にまたうれしいお知らせが届きました。
ここにも書いたけど、女は痛いところから目を背けて夢見がち。お花畑を想像してわくわくしてるのはいいことだけど、その花が咲くまでに泥臭く努力してる人がいることを想像できない。きれいな花だね。と共感してくれた人がいい人で、その努力を見ないでお花畑にいることだけがじぶんのしあわせ。
努力と根性論はわたしもしたくない。
ただ評論家になるぐらいなら、その好きなことをただの趣味としてとっておいて、お金やじぶんの豊かさだと勘違いしないように、じぶんを戒めようと思う。
読んでいただいてありがとうございました。