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いつものプリン🍮~豊かな暮らし~

あなたにとって《豊かさ》とは何ですか?
あなたの日常は愛おしいものですか?
《豊かな暮らし》と聞いてあなたが思い浮かべる暮らしは何ですか?
あなたの住む場所は、あなたらしい場所ですか?



ある日、その場所から急に去ることになったら、
あなたならどうしますか?

前編はこちら ①月明かり町へ~私らしい場所を求めて~②祖父母の想い出の地で~令和に残る昭和の息吹き~

イベント自粛要請

その日は、急にやってきました。中国から来た未知のウイルス。
音楽、イベント業は最初にその波が。2月末の自粛要請より少し前、中旬よりキャンセルが相次ぎ、一気にほぼほぼ無職に。
オンラインレッスンとわずかに残った小さな公演を残して、先行きの見えない日々が始まります。

母、入院

加えてこんなときに母が入院。コロナではなかったので、最初は面会にも行けたものの、日々感染が拡大していく中で、穏やかだった病棟がピリピリに変化してゆく。面会も日に日に入れなくなり、不安になる日々。
手帳は真っ白。何もかものが不安しかなく、本番後に何度も倒れてしまい、共演者にはご迷惑をおかけしました。支えて下さった皆様には感謝しかありません。

大切なものとは

「退院後、お母さまの介護に東京から通うのは厳しいかもしれない」
入院時、状態があまりよくなかった母は、最悪介護が必要になるかもしれないと医師に報告を受ける。
まだ高齢者ではない母は、保険が適用されず、予算としても、そして娘である私の負担も大きくなるという。
また、最悪の場合かかる医療費の額に驚き、母子家庭の私はどうしたらよいのかわからず頭が真っ白に。

医療チームからの「実家に戻りなさい」の圧力に負け、一度は帰ることを決意。だって母は私のたった一人の家族。

昨年、祖母の行きたかった目黒川の桜を母に見せてあげることが出来たけど、母が行きたがっていた日光にはいかせてあげることも出来なかった。
花嫁姿も孫も、何も親孝行が出来なかったのなら、せめて一緒に居た方がいいのでないか。仕事は通えない距離ではない。しかもコロナは収束しそうもなく、仕事もない。一人暮らしは単なる私のわがまま、なのだからと。

母の介護用ベットを置くため、実家をひっくり返して大掃除しながら、
最悪家を売ることも考えて、祖父母の仏壇の前で泣き崩れる。
眠れそうになく、夜中の首都高を走らせて、目黒のおうちへ帰宅。
久しぶりの自分の家は心地が良く、こだわり抜いた大好きなものたちに囲まれた私だけの城は、私が私であるための大切な場所でした。

翌朝、商店街へ。母の状態がよくなくて、実家に戻らなければいけないと伝えようとしたとき、人生で感じたことないくらいの、拒絶反応が出ました。

「いやだ、ここから離れたくない。」

子供のころから、わがままなんて言ったことがなかった。
自分の本心からの声があふれ出てきたその言葉は、お母さんも大切だけど、自分も大切なのだという、根本に気づいたのでした。

病院に行くと母が喜んで、
「みっちゃん帰ってきてくれるの嬉しい!!!あのね、コンビニでお菓子買ってきてくれない?病院のごはん薄味で耐えられないの。」
太ってることで、受けられない治療法があるにも関わらず、この期に及んでまだ食べたいのかということに呆れた私。

「信じられない。私には私の暮らしがあるのに、それを辞めて帰るっていってるの。それでもママが生きたいように生きたいなら自分で買いに行けばいいでしょう。私は東京から帰らないから。好きにすればいいじゃない。」と病室で大ゲンカ。

その夜近所に住む叔父に相談。目黒の家は、私が私であるために必要な場所であることに理解をしてくれた叔母。

「アイツを自立させよう。」
母は私に甘えている。母はどんな病気であっても自立して、サポートが必要なら手を貸そう。そう叔父が言ってくれた。

私はきっと子供のころから、祖父母にそれを言って欲しかったんだ、気づいた。娘として、帰らないという選択をするのは親不孝なのではないかと思った。でも私の人生と母の人生を混同してはいけない。他人のために人生を犠牲にしてはいけない。

これは私が共依存からの脱却し、自分の人生を生きるための試練だったのかもしれない。

母、回復

投与した強い薬が功を奏し、当初の予定より早く回復した母。
退院後も当初はトイレに一人で行くのも大変だったけれども、食事療法と訪問看護師さんの助けもあり、日に日に母の体調は良好に。
私も1日3食作っていた日々から解放され、宅配弁当、母も料理や洗濯、掃除まで出来るように回復。退院前は、ほぼ寝たきりの予定だったので本当に驚き。

世の中が緊急事態宣言で2か月間ステイホームしている間、実家にいて母の回復の手伝いをゆっくりできたことは、今思うと不幸中の幸いだったのかもしれません。

そんなときに少し体調を私が崩してしまったとき、一緒にいすぎるのも私にストレスがかかって良くないと思い、東京へ戻ることに。ちょうど世の中も関東圏内であれば移動制限を解除しはじめたときでした。

いつものプリン

2か月ぶりに東京の家へ戻ると、じめっとした空気にクモの巣。
人が住まないと、家ってよどんでしまうみたい。
換気をして、私の身体も休ませて、体調も良くなったところで、(病院で色々検査して疲れと判断されていました。)久しぶりの商店街へ。

コロナで大変だったよ!
とみんな言っていたけれど、緊急事態宣言が終わったあとで、
平和な穏やかな日常に戻って落ち着いたところだったみたい。
苦労話を聞きながら「東京に居なくて正解よ」と言われて、
なんだか浦島太郎みたいな気分でした。

そしていつものカフェへ。
いつもの場所。窓に映る夕暮れに染まる商店街。
いつもの優しい笑顔でお兄さんが運んでくれる。

「おかえりなさい」

なんでもない、私の小さな毎日。
泣いたり、笑ったり、演奏したり、教えたり、
食べたり、飲んだり、ぼーとしたり。。。
そんな小さな毎日が、大きな幸せで、
それがあることがどれだけ幸せで、恵まれていたことか。

いつものプリン。
その喜びに溢れて涙が止まらなくて、
忘れ物取りに行ってきますと部屋に戻って、号泣。

もっともっとバリバリ仕事をこなせる音楽家になりたいとか、
みんなが羨む結婚がしたいとか、
海外でもっと学んで、もっと良い演奏したいとか、
色んな思いがあって出てきた東京だったけど、

離れてみて、そして戻ってみて感じたのは、
野望や夢やどこかに追いかけていた未来の未知子ではなく、
ありのままの自然体の、本当の自分の姿でした。

仕事で落ち込んだり、本を読んで理解できなくて挫折したり、
失恋したり、友達と喧嘩して落ち込んで飲んだココアの味とか、
嬉しいことがあってお寿司を買ったり、可愛い雑貨を買ったり、
ぐだぐだお店の人とおしゃべりしたり、
1個10円のトマトに喜んだり、美味しいものを作ったり、
友達が泊りに来たり、朝までワイン片手に泣き続けたり。

何処にいても変わらない、等身大の未知子でした。

コロナも母の病気も終わったわけではないし、
私の仕事も戻ったわけではないけど、
東京の家に戻って気づいたのは、

飾らない本当の自分の姿と、
日常の愛しさでした。

「戻ったばかりじゃなにもないでしょ」
定食の残りを頂いてしまった。
これが平和通りの優しさ。

いつもの市場もコロナ仕様に。
「2か月振りに帰ってのか!もうそんなに経ったのか」
果物やさんのその遠い目に、2か月の大変さが目に浮かんだ。

街の人と触れ合うミニコンサート

コロナの間大変すぎたようで、カーヌーンを習ってくれていたパン屋のおばあちゃんの脚の痛みが悪化。
「今は練習する気持ちになれないの。でも演奏してくださらない?」
そんなひとことから、気が付けば毎週土曜日の夕方、歩行者天国の時間にパン屋さんの前でふわふわ弾くのが定番に。

最初話しかけてくれるのは珍しいもの好きの方だけだったけど、木琴を持ち込んでから一変。
その音の大きさと、見た目の迫力、聞いただけでプロと分かるからか反応がスゴイ。(カーヌーンは誰も知らないからかもしれません)
マリンバも最近は持ち出して、体験会にもなり、気軽に人が集まる定例イベントになってきました。
近所のお店や住んでる人に怒られないか不安だったけど、喜んでいるという話を人から聞いたりして驚き。

「今週末もマリンバあるの??」
そんな問い合わせがパン屋さんにあるくらい、
定着したイベントになってきました。
コロナ禍の中で、リアルに楽しみに出来るイベントが出来るで嬉しい。


引っ越した時、地元で何かしたいと思っていたけど、
自然発生的に、「この街に住む音楽家」として何かが出来始めたようです。

お嫁さんの発想で投げ銭箱も設置。私の食費も助かります◎

本番後、お外で打ち上げ。

諦めなくて、良かった

ふと、Twitterを開いたら、目黒区アーティスト支援事業のお知らせが。
コロナで演奏の機会が減ってしまったプロのアーティストに向けて、区がパーシモンホールを借りて下さり、その演奏動画をケーブルテレビと、YouTubeチャンネルでPRしてくださるという企画。

こんな素晴らしい企画は無いとすぐに申し込み当選。

素晴らしいホールで、素晴らしいスタッフさんに囲まれて、
音楽に集中した6分間のビデオが撮れました。

幸せな日で、目黒に住んで色んなことがあったけど、頑張ってよかった。
あの時あきらめなくてよかった。粘ってよかった。
ただただ、色んなかたのおかげで、この状況でも変わらず、
愛する街で暮らし、音楽を表現する機会を頂けていることに、
心から感謝するばかりでした。

いつか満席の会場で演奏したい。

消えゆく昭和の街角で

これまで街の方に助けられてきました。そんなこの街のランドマークから悲しいお知らせが。

この平和通りを彩る最大の魅力である市場が、来年2月の閉店が決まりました。コロナよりずっと前から分かっていたこと。
それでもどこか奇跡を信じて、みんな希望を持っていました。
でも、ついにその日はやってくるのです。

諸行無常

かつて賑わいを見せた平和通り。商店のみならず、露店も並び、戦後の日本経済を支えた闇市からの発展。日本が貧しくても強く、そして活気と希望溢れる時代。

諸法無我


時が移り変わり、街がどう変わってしまっても、
人が住み、それぞれに人生のドラマがあるのかなと思ったり。

《豊かな暮らし》
と聞くとどんな暮らしを思い浮かべますか?
人によって、その時によって色んな豊かさがあるのかと思います。

令和2年の9月の未知子にとっての豊かさは、
「日々の暮らし」です。

毎日元気なわけでもない。落ち込んだり、悩んだり。
はしゃいだり、調子乗ったり、ふわふわしたり。どんな日も美しくて、愛おしい日々なのかなと思います。

今は時代の大転換。大革命のとき。
色んな占い師さんが「コロナは序章。年末年始からようやく新しい時代が動く」なんて言っていたりします。
占いが出来なくても、なんとなくそんな気がするのです。

この冬、平和通り商店街の中心地、市場は閉店。
道一本先に、小さいテナントがたくさん入る、「ミチノサキ」という
新しいビルが建ちます。
人の流れがどう変わるのだろうか。

どんな時も、自分らしく、そして日々の感謝に生きれたらと思います。

消えゆく、昭和。それでも変わらないもの。
桜は散りゆく時が一番美しい。
それが日本の美学。

この街に来て、私が果たすべき役割が見えてきました。
新作にその想いを込めたいと思います。
どうぞお楽しみに。そんなわけで、この続きはまた発表のときまで、お楽しみに☆

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