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おそるべし、メディアミックス――かくて私も『三体』にハマる  その2

…さて、10月初旬に『三体』ドラマ1話から10話までをWOWOWで見たあとにKindleで原作の日本語版を読み始めたことを、11月初旬に報告した(「その1」)。

その後11月初旬に11話から20話までが放送され、18話までは録画を視聴(今回はじっくり等倍速で再生しているので時間がかかっている)。そして11月20日現在、『三体』原作3部作のうち第1作を読了。つまり、ドラマ11話から18話までは、原作を読みながら並行して見ていたことになる。

原作の三分の一以上は読み込んだ後でドラマの中盤(11話以降)を見始めたわけなので、当然私の中ではドラマは小説の後追いの格好になるはずなのだけど、前にも述べたように、起きる出来事や展開も違い、そもそもドラマはサスペンス色がより強いので、原作に無いシーンもたくさん盛り込まれたようで、今のこのシーンが小説でいえばどの部分に当たるのか、というのが皆目わからない。

ただ、素人にはかなり難解な科学的記述が続いたかと思うと、あっと驚くような展開が突然やってくる、というのが、小説では二度ほどあって、そこがこの作品の肝なのだけど(だからネタバレしないように、ここでは曖昧に記している)、それが、ドラマと並行読みをやっていると、今見ているドラマのこの時点では、そのあっと驚くような展開が既に起きたのかどうかさえ、自分の中ではあやふやになってくる。

その理由としては、ドラマを見始めてから小説を読んだせいで、もはや登場人物たちはすべてドラマのビジュアルで脳内再生されているからだ。だから、ドラマを見ていて、「彼らはあの展開を既に知っているんだったっけ?」とわからなくなってしまうのだと思う。(こんな説明でわかってもらえるかどうか不安ですが…)

これは、ドラマと小説を並行して摂取することのデメリットなのかもしれない。要は、大まかな筋立てはどちらも把握しているものの、細かい時系列とか因果関係などが自分の中で整理しきれず混沌としてしまう。

前回も書いたように、主人公ではない別の人物の話が小説では冒頭に来る。けれども小説を最後まで読むと、むしろその「別の人物」こそが主人公だとさえ言える、ということがわかってくる。ドラマで主人公だと思っている人物はむしろストーリーテラー的な視点人物であり、ドラマの中でも、真の主人公の語る過去の話の聞き手に回っている。

この、小説とドラマの始まり方が違うという点については、まあドラマなら現代から始まった方がとっつきやすいからなんだろう、と自分では納得していたけれど、小説の訳者あとがきを見ると、真の理由が明かされていた。実は中国で刊行された単行本では、その前の雑誌連載の段階とは異なり、現代パートから始まる順序が採用されたそうだ。けれども原作者は本当は最初に書かれた順番、つまり過去パートから始まる方を希望していたため、日本語版の訳者陣が参照したという英訳版は、過去パートから始まるバージョンに戻っていた。だから日本語版の小説は過去パートから始まるのだという。一方、ドラマは中国国内で制作されたものなので、中国語版の小説と同じく、現代パートから始まる形になった。(実はもう一つNetflix版ドラマ化も進行中だそうで、それがどのような形になるのかは未知数らしい。)

ともかく、結論としては、小説もドラマもどちらも先が読みたくて(見たくて)うずうずしていたので並行摂取してしまったけれど、やっぱり、どちらかを終えてからもう片方に移行した方が、自分の中での混乱ともやもやは多少はマシだったかもしれない、ということ。二兎を追う者は一兎をも得ず。そういう意味でも、おそるべし、メディアミックス。あなどってはいけない。

目下の悩みは、このまま続けて『三体』3部作の2作目を読むべきなのかどうか。もしいずれにせよ後で読むつもりなら、今、続けて読んでしまった方がいいような気もする。記憶と感動が新しいうちに。

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