人間が1人増えると家事は2.5倍になる
先日、友達が新しく移転したカフェに、夫がお祝いがてら遊びに行ってきた時の話。友達は家族の形態が最近大きく変わり、さらには仕事環境も変わり、とにかくあっちもこっちも変化の連続で新しい環境に慣れるために頑張っているのだが、やはりなかなか一筋縄ではいかないらしい。
それはそうだろう。生活環境の変化は楽しい反面、心身ともに大きなダメージをもたらすものだ。例えば一人暮らしから二人暮らしに変化したとしよう。何となくイメージとしては家事が2倍になるのかなと思ったり、協力すれば家事負担はむしろ半分になるかもしれないと、暮らし始める前はワクワクしているかもしれないが、実際はそんな甘いものではない。私が体感してみたところによれば、人間が1人増えると家事は2.5倍になるのだ。
計算がおかしいと思うだろうが、実際そうなので本当に魔法でもかかっているのではないかと思う。まずこの「2.5倍」という数字についてだが、これは実際の家事労働の分量が増えているというだけではなく、ここに実は心理的負担も加わっているが故の体感として「家事が2.5倍になった」という話である。もちろん人間が増えているので実際の家事は増える。食器の洗い物も増えるし、食料の調達量も違うので買い物の頻度も異なってくる。一度に作る料理の量も違えば、食べるタイミングも自分一人の時とは全く違ってくる。掃除だって人間が増えれば汚れるスピードもぐんとアップする。洗濯の量はもちろん増え、使う洗剤の量も水の量も電気の量も全然違う。色々総合して「人間が1人増えると家事が2.5倍になる」のだ。ネット検索で家事分担という単語を調べると共働き家庭のための家事分担の工夫などの記事が多く見受けられる。どちらか一方が家事を「自分ばっかり負担が多い」と感じてしまうことが問題点として挙げられている場合が多く、そういう感情も含めて「2.5倍」もしかしたら「自分ばっかりが家事を3倍こなしている」と感じている人もいるかもしれない。
さて一体どうしたものだろうか。我が家は去年から少し広い家に引っ越したこともあり、当然のことのように家事負担が増えていると感じている。まず、面積が広いということはつまり掃除する場所が多いということだ。単純計算として掃除面積は2倍になっている。かといって、掃除をサボると家が心地よく感じられなくなるので、それは絶対に避けたい。
はてどうしたものか、と思い、半年ほど試行錯誤した結果、私が編み出した方法は以下の通りである。参考になるものがあるかはわからないが、ちょっと書いてみる。
解説していこう。まず1番。
これはもう、私が食べ物に興味がないからできることとも言えるのだが、食べ物に関わる家事が多すぎると感じた私は、ある時断食をしてみたのだ。すると何とも快適で、何とも体が楽になり、改めて食べ物に関わる家事が私を苦しめていたことに気づかされた。さすがに夫や愛犬が何か食べたいと言った時にはしっかり食べ物のことをしようとは思っているのだが、自分一人の時間に無理して食べなくていいんじゃなかろうかと思い至った。食べなければ食材の減りのスピードも緩やかになり、結果買い出しという労働が減らせる。調理して食べて片付けるということに費やすエネルギーも節約できる。無駄喰いをしないので健康にも良いと私は感じている。それでもまあ一応人間なもので多少お腹が空いたなと思うこともある。そんな時のために、ブドウやヨーグルトなどほぼ調理しなくてもパクッと食べられるものは多少冷蔵庫にストックしておくようにはしている。しかし断食を通じて塩と水分があればどうにか楽しくやっていけると気づいてしまった私は、特に冷蔵庫の中にストックがなくても気にならなくなり、随分と心理的にも肉体的にも楽になった。これを同じように真似してみてねとは薦められないのだが、大切なのはどうしたら自分の負担が減らせるのかを常識を疑って考えてみることではないだろうか。私は3食食べねばならないという常識を疑った結果、今の所良い方向に向かっているように感じている。
次は2番。
これはダメージも大きい可能性がある方法なのだが、私は特に水回りが汚いことがどうしても落ち着かなくて許し難いと感じてしまうタチなので、寝る前に必ずキッチンはピカピカにしておきたいし、毎日トイレもピッカピカにしておきたいと思っている。片付けの専門家によるコツなどを読んでいると、物は物を呼び寄せてしまうというのがある。例えば机の上に全くものがない状態と、何か一つでもポンと置いてある状態なら、ものがある方が机の上が散らかりやすいというのだ。たった一つ何気なく置いたものが他のものを呼び寄せてしまう。床の上に絶対に物を置かないというのは片付けの基本のようで、これもまた同じように床に一度でもものを置いてしまうと、どんどん床が散らかり始めるという仕組みである。寝る前にピッカピカにしたはずのシンクに朝起きたらドンドンと飲み終えたコップや謎の箸やスプーンが投げ込まれていると絶望のどん底に陥るのだが。どうにか「洗わずにはいたたまれないくらいピカピカ」にしておきたいと願って日々頑張っている。これは我が家の夫が「シンクに入れたら完璧に片付けた」と思っているらしいことが原因なのだが、これはもう幼少期からのお育ちの問題なので、どうにもならないのだろうか。食器は洗って拭いて棚にしまうところまでで完了なのだが、こればっかりは何度言ってもどうにもならないのだろうか。いやいや、それでも私は負けない。せめて私が管轄できる時間内だけでも水回りはピカピカにする。ここは、絶望してもめげないぞという強い気持ちで頑張る部分として自分を納得させることにしている。夫が「恐ろしくピカピカに掃除されているから散らかしたり汚したりするのが申し訳なくなって片付ける」日が一生来ないかもしれないが、私は負けないぞ。強い気持ち、これもまた大切。
最後3番。
自分のペースで家事をするというのはどういうことかというと、わかりやすいのが洗濯。私はどうしても汚れた洗濯物を24時間以上放置できない。臭いものがどんどん濃くなって洗っても洗っても取れないのじゃなかろうかと不安で仕方がないし、何しろ汚れた布のものが溜まっている状態が耐え難い。ふきん2枚程度なら洗濯洗剤を使って手洗いし、脱水だけ洗濯機にお願いして、干してしまいたいというくらい、とにかく汚れた洗濯物が溜まっている状態が耐えられない。しかしさすがの私も、ちょっとの洗濯物で洗濯機を回してしまうよりは、まとめて洗ったほうが効率も良いし水や電気や洗剤も節約できることくらいは考える。考えるのだが、考えすぎてストレスを溜めてしまった経験から、「もうやめた、私は私の体力があるタイミングで洗濯をするのだ」と割り切ることにした。洗濯機を回し始めて少し経ったタイミングで何故か夫がシャワーを浴びて大量の洗濯物をお出しになっても、諦めて洗濯機を2回回してやろうと思うことにした。最初は効率が悪いな、節約できていないなという罪悪感に苛まれていたが、慣れてきたらそれなりに上手くやっていく方法が見えてきた。例えば、明日でも大丈夫かもしれないような大物の洗濯物をいつ洗うのか。シーツや布団カバーなどがこれに該当するのだが、もちろん晴れた日に洗う。しかし先ほどの洗濯物に関して極めて間の悪いことこの上ない我が家の夫の行動と、この大物洗濯を組み合わせたら、あら不思議、節約できていない罪悪感が少し緩和されたのである。サーフィンが好きな夫は家事労働の目線から見ると奇妙なタイミングでシャワーをすることが多い。しかし夫がシャワーをした後が、大物洗濯のチャンスと捉えたら気持ちが少し楽になったのだ。家事はとにかく、自分の体力との相談が最優先事項。無理をしたら絶対に続けられないし倒れてしまうのは目に見えているので、自分のペースをなるべく崩されないように家事を淡々と進められるような考え方や工夫が必要と痛感した。
家事は賃金が発生しない。生活費をもらっていたとしてもそれはあくまでも「経費の精算」であって賃金ではない。だからこそストレスが溜まりやすいのだ。
ノーギャラの仕事をどこまでできるのかというのは、本当に心理的な影響が大きいと感じる。世の中には例えお金がもらえなくても自分の経験や楽しみや喜びのためにぜひやりたいと感じるような仕事が存在することを私は知っている。逆に身に余ると感じるような高額のギャラの仕事があることも知っているし、そんな時は結果的に猛烈なるプレッシャーと闘うことになるので、最終的にはギャラに見合った労働だったと感じて終わる場合がほとんど出しむしろちょっと足が出たかもなと思いながら無事に終えるものだということも知っている。しかし家事だけはどういうわけか「これは労働対価に見合わない」と感じるケースが多々あるのである。ここでいう対価というのは人生の喜びを得られるだとか、お金には代えられないものを得ているだとか、資本主義経済の外にある確かな価値も含めての対価の話であり、お金が全てじゃないのよと思って考えたとしてもそれでも見合わないと感じるが故のストレスである。家事労働と対価が見合っていると感じられるようになることは、極めて難しいのかもしれない。ならば、なるべくマイナスを減らそうと考え方を変えるしかない。対価に見合ったものを得たいと思うのに得られないから、いつまでもイライラするのであって、最初からそんなことにはならないからなるべくマイナスを減らすようにしよう、と思えれば腹が立つことも多少は少なくできるだろう。
そんなわけで、本日の大きな結論としては「家事を分担できるという幻想は今すぐ捨てましょう」という話なのであった。分担できると思っているから問題が発生する。そもそも自分が全部やるしかないと思っていれば、そしてその範囲でできることを工夫しようと思えれば、最初から絶望するタイミングを減らせるのである。もしも二人で暮らしてお互いが「全部自分がやるしかない」と心の中で思えていれば、おそらくその時初めて本当の意味で家事が分担されるのではなかろうかと思うのだが、そんな奇跡はレアものだと思っておくのが賢明だろう。