吉本ばななさんの魅力に気がつくには人生の積み重ねがある程度必要なのかもしれない
作家さんの熱烈なファンというのは確実に存在して、読者の方も好きな作家さんばかりを追いかけて読んでしまうという傾向もあるのは確かなのだが、小説やエッセイは色々読んで自分を耕したいなと思っているので、最近はなるべく偏らないように本を選ぶようにしている。
しかしそれでも好きな書き手というのはあるもので、例えば昔は、東野圭吾さんや恩田陸さん、小川糸さん、小川洋子さん、伊坂幸太郎さん、星新一さんなどといった、いかにも小説やエッセイで売れ線ですよという書き手を好んでいた。
もちろん今でも好きなのだが、ある時から、何か大切なものを見落としてしまっているような気がして、古い名著や哲学書も手にするようになった。さらに作家にこだわらず、なんとなく気になったものを手当たり次第に試して見るというのもまた面白く最近はさらに節操もなく色々と読み漁っている。
その中で、ファンも多いであろう吉本ばななさんの本を数冊読んだ。
彼女の本は、なるほど、好きな作家として挙げる人が多いのも納得である。そしてその魅力はもしかしたら、若い頃にはあまり気づきづらいものなのかもしれないとも最近感じている。
つい先日は『夢について』という吉本ばななさんのエッセイを読んだ。
タイトルにある通り、吉本ばななさんがみた夢が話題の中心になっているエッセイで、文体も読みやすく、ちょっと不思議な話も混じっていて、小説のようなエッセイであるように感じた。
最近、自分の中の美しさの基準はどこにあるのかについて考えていたところだったので、
という一節が気になった。
私にとっての「美の引き出し」の中には、静寂が詰まっている。美は常に静けさから生まれ、静けさに格納される。賑やかで華々しいものの中にも美しいものは確かに存在するとは思うが、絶対に譲れない普遍の美しさがどこにあるかと考えた時に、静謐な空気というのは私の中でどうしても必要な要素だった、ということに最近やっと気がついたばかりである。
自分は一体何なのだろうか、と考えあぐね迷っていた時期は長く、今もまだ道半ばであるとも言えるのだが、この文章を読んだときに、なんだかふっと、これでいいんだと思えて心が落ち着いた。
私は、私というものに属していて、それ以外の何かであることは不可能だし、もしも無理に他の何かに属そうとするならば、いずれ破綻するのである。
私は私が想う私になりたくて、私というものを明確にせざるを得ない職業を選択し、日々進んできたはずなのだけれど、いつの間にか私ではない、社会が求める誰かの像にすり替わってしまった自分がいて、その違和感が大きくなった時に、どこかの壁が崩壊し、ダムの水は溢れ出てしまった。
色々なタイプの人がいて、何か他のものに属することで落ち着きが生まれる人もいるかもしれないのだが、私の場合はまさに「自分以外のものに属することはできない」タイプだったのだと思う。
自分は一人しかいないので、自分を自分でやるしかないというのは、それはそれはとても孤独な道なのだけれど、それでも自分以外に寄りかかることが難しいタイプの人間で、ましてや自分以外の何かの皮を被り続けることなんて絶対に無理なタイプというのが私である気がしている。
スッタニパータにあるように、ただ「犀の角のようにただ独り歩め」という言葉だけを頼りに、道なき道を手にしたランタンで自ら照らしながら行くしかない。
もしも人が、生まれる前にこんな人生を送ろうとある程度決めてからこの世に生まれてくるんだよという話が本当だとするならば、おそらく私は、この道を決めて生まれてきたのだろう。だから、何度も道から外れそうになると修正され、何度もこのただ独り歩く道へと連れ戻される。家族がいて、支えてくれる人はたくさんいる。けれども最後は結局自分の道を自分で一歩一歩選んで歩くしかない。
最近はさらに、「あ、今の自分、なんか違うな」と気がつく機会もあったりして、ならばこまめに軌道修正をして行かねばと思っていたところである。
自分の基準は自分だけが知っていればいいし、自分だけに通じればいいわけで、けれども自分の基準からあまり大きく外れない方が効率がいいのである。結局基準の線に戻ることになるのだから。もちろん寄り道も楽しいが、あくまでもそれは寄り道を楽しんでいるだけなのだと自覚する必要があるだろう。
時々立ち止まったり、寄り道したりもしながら、自分の前の1本道を粛々と進むしかない。