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言語を学ぶ熱源は文化への情熱

『千葉からほとんどでない引きこもりの俺が、一度も海外に行ったことがないままルーマニア語の小説家になった話』

という済東鉄腸さんのエッセイは前々から気になっていたのだが、ようやく最近読むことができた。なぜこの本が気になっていたのか、話題になっているからか、やけに長いタイトルが物珍しく感じたからか、はっきりとは判別しないまま気にしていた本だったのだが、読んでみてその理由がわかった。

彼がルーマニア語を学び、その言語で小説を書くようになるまでには、何があったのかが気になり、そしてそれは私の中でのタイ語に近い何かなのではないかという予感がしてい他のだ。

その予感は見事的中していた。

済東鉄腸さんは映画好きで、日本未公開の映画についての文章を書いているうちに、ルーマニア人の監督の映画作品に出会う。

だけどぜひとも一作だけ、俺の人生を変えてしまったって作品について語らせてほしいんだ。それこそがコルネリュ・ポルンボユ(Corneliu Porumboiu)監督作によるルーマニア映画《Polițist, adjectiv》、俺の脳髄をルーマニア語辞書でブッ叩いて、そのままルーマニア文壇へと半ば強引に引きずっていった大恩人だよ。

『千葉からほとんどでない引きこもりの俺が、一度も海外に行ったことがないままルーマニア語の小説家になった話』済東鉄腸(著) p.25


この映画は “Police, Adjective”で検索すると映画祭で紹介された様子や映画の宣伝の動画を多数YouTubeで見つけることができる。

 今作は俺にとって相当に重要な映画だ。例えば映画批評家としてはルーマニア映画にド嵌まりして、ルーマニアの批評家や映画作家と関係を深めるきっかけになったし、それが巡りめぐって小説家として活動するうえでの繋がりも作ってくれたからね。
 だがルーマニア語を学ぶという点においてが最も重要で、それはこの映画が言語というか、ルーマニア語そのものがテーマとなる作品だからだ。例えばYouTubeから流れる往年の名曲をきっかけに、ルーマニア語の修辞法が議論されたり、主人公が恋人と言い争いになるかと思えば、その原因は定冠詞の書き間違いだったりね。

『千葉からほとんどでない引きこもりの俺が、一度も海外に行ったことがないままルーマニア語の小説家になった話』済東鉄腸(著) p.26


外国語を学ぶきっかけは人によって異なるだろう。仕事でどうしても必要だから、という人もいれば、結婚相手や恋人が日本語ではない言葉を使う人だったから、という人もいる。
私の場合は英語は仕事上必要だったことと、家族ぐるみでの友達が英語を話す人が多すぎて、結婚によってもはや話せないなんて許されない状況に陥ったからだった。そしてタイ語は、私の尊敬する現代アーティストたちの何人かがタイ人であり、タイの現代アートシーンの独特な感覚やタイ人ならではの表現を理解するためにはどうしてもタイの文化につながるタイ語がどうしても必要だと感じたからだ。英語にも日本語にも翻訳されていない、タイ語でしか調べることができない多数の重要な情報は、作品を理解する上で必要だと思ったのだ。

俺は心の底から、ルーマニア映画をもっともっと知りたいと思った。そしてそれにはルーマニア語を学ぶことが必要不可欠だった。

『千葉からほとんどでない引きこもりの俺が、一度も海外に行ったことがないままルーマニア語の小説家になった話』済東鉄腸(著) p.28


知りたいことを知るためには、言語を学ばざるを得ない状況だということに、私は強い共感を覚えた。

それと同時に、おそらくこの本が気になったのは、今の自分が数年かけて向き合ってきた「忖度」と「おもねり」についての要素が込められていたからかもしれないとも思った。

そんななかで俺が魅了されたのは、誰に請われるでもなくただただ自分が書きたいからという理由で、ネットに映画についての文章を書き散らす在野の映画好きたちだった。ここには制限なんかない。だから日本では未公開な映画についても書いている人々がめちゃくちゃいた。旧作・新作の区切りなど関係なければ、国の境すらも存在しないんだよ。

『千葉からほとんどでない引きこもりの俺が、一度も海外に行ったことがないままルーマニア語の小説家になった話』済東鉄腸(著) p.22


それが仕事である以上、その仕事を依頼した人がいて、受注する人がいる。そしてお金を媒介に業務が成立していることがほとんどだ。お金をかかげることで「忖度」と「おもねり」が発生することがあり、実はそういうケースは多い。仕事を発注してくれたクライアントさんの気にいるように、受注された人は何らかの仕事を納品する。なぜならお金を払っているのはクライアントさんだからだ。それは仕事だからそれでよいとは思うのだが、そればかりを繰り返していくと、自分の心は守っているぞと強く思い続けていたはずなのに、いつの間にか「忖度」と「おもねり」に侵食され、飲み込まれてしまう。

ルーマニアにおいて小説の執筆はお金に繋がらない、つまりは小説という芸術が、資本主義の論理の外に在るということだ。「芸術が金と結託するとクソッタレになる」って古風な考えを持つ俺にとっては魅力的に映るんだよ、ルーマニアは。

『千葉からほとんどでない引きこもりの俺が、一度も海外に行ったことがないままルーマニア語の小説家になった話』済東鉄腸(著) p.94


私も昔は似たようなことを強く思っていた時期があった。けれども考えれば考えるほど、「それでも私たちは資本主義が台頭しているこの現世で何とか生き延びなければならないのだ」と思い、悩んだ。今現在の結論は、「お金というものへの感覚や捉え方がなるべく近い人たちとやり取りをして行けたらいいな」ということだろうか。難しいテーマなので、また悩み続けて変わっていく考えかもしれないのだが。快く払って快く受け取る。どういうことが心地よいかは人それぞれなので、なるべく自分に精神的無理を強いないような状態でやり取りができればいいなと思うのだった。

済東鉄腸さんのこのエッセイは他にも面白い話が盛り沢山で、特に六本木の映画祭で『フィクサー』というルーマニア映画を鑑賞した直後に、アドリアン・シタル監督とルーマニア語で会話するシーンにはちょっと胸が熱くなった。初めてルーマニア語を使った相手が憧れの映画監督だっただなんて、まさに念願叶って自らの手で掴んだ奇跡といえよう。

私はルーマニアについての予備知識がほとんどない状態でこのエッセイを読み始めたわけだが、特にこの本からE.M.シオランというルーマニアの思想家、反哲学者を知ることができたという収穫は大きかった。シオランについて書かれていた内容や、その後で自分でネット上で調べてみたことを集めれば集めるほど、私が幼い頃から感じていたけれど誰にも受け入れてもらえなかった心の叫びは、すでに何年も前にシオランが定義してくれていたことだったのだと気がつくことができて、とても安堵したのだ。今年の初めの目標に、確か「好きな哲学者を見つける」というのを掲げていたように思うのだが、秋も深まり年末の声が聞こえ始めたこのギリギリになってどうやら見つけられたようである。何人か好きな哲学者がいるのだが、その中にシオランが入ることは確実だろう。済東鉄腸さんのエッセイを読まなければ、気がつくことができなかった。

そうは言っても、この本がきっかけでルーマニアに急に俄然興味が出てきた、というわけではない。それでもちょっとルーマニアの現代アートシーンはどうなっているのだろうかという興味は湧いてきた。今までルーマニア人の現存作家に気がついたことがないのだが、視点を変えればきっと、自分が好きな作品がルーマニアの作家のものだったという出会いがこれから起きてくるような気がしている。いつも思うのだが、人は見たいものしか見ることができない。気がつこうとして初めて発見できることは山ほどある。つい先日も、タイ人の現代アーティストでこれまで観てこなかった作家を知る機会があった。新人や無名な人ではなく、タイのアート界隈やもちろん世界でも注目されている作家なのだが、日本ではアジアをキーワードにしたグループ展で1点が紹介される程度の扱いになってしまっている作家だった。日本語でだけ情報を集めていたら気がつくことができないことは多い。今回も私はその作家さんを知ったのは最初はタイ語での発信を見かけたことであり、次に英語での発信から情報を集めることができた。私の中にルーマニアというキーワードがシオランを中心に降ってきたことによって、おそらくこれから見えてくるものは、変わるだろう。

済東鉄腸さんのこのエッセイは、どうしても知りたいことややりたいことがあるなら、今自分が置かれている状況でできる最大限のことを考え尽くしてやってみれば、何か面白いことが始まるのだということを、改めて感じさせてくれる本だった。


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