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📖『だれも死なない日』📖ジョゼ・サラマーゴ

人生の終盤に差し掛かったと感じるようになると、人は死について考えることが多くなるらしいのだが、実は私は10代から死について気になっていた。そして気になる度合いは年々増している。厳密に言えば、若い頃は死についてというよりも、なぜ今ここに生きている状態が存在するのか、のような、どちらかといえば死よりも生に寄った方向から考えていたのだが、40代になると「死はなぜ悲しみをもたらすのか」などといった死と執着にまつわる観点から多くを考えるようになった。

『だれも死なない日』というタイトルを図書館の棚で偶然見つけたのも、普段から死について考えていたからかもしれない。ジョゼ・サラマーゴというポルトガル語圏で初のノーベル文学賞を受賞したこともある作家の小説で、他にも有名な作品で日本語訳もされているものも複数あるようなのだが、なぜこれまで彼の作品を読まずにきたのかと後悔した。彼について検索するとその独特な文体について触れられていることが多い。会話文でも鉤括弧も改行もせず、ただ読点だけで語り手が切り替わっていくその書き方に、最初は読みづらさを感じたが、すぐに慣れ、しかも一度慣れてしまうとその文体のリズムがむしろ心地よく感じられるようになってしまった。現実世界の目の前で展開される会話には鉤括弧も改行も表示されていないわけで、小説中で展開される登場人物たちの会話文は映画字幕を読むかのようなスピード感にも感じられ、まさに頭の中で映像化や舞台化がされた表現表出がすんなりと想像できるものだった。ひょっこりひょうたん島くらいのレトロ感のある人形劇や東欧のヴィンテージっぽい色調で平面的なレトロアニメになったら素敵かもとつい妄想もした。

翌日、人はだれも死ななかった。

『だれも死なない日』ジョセ・サラマーゴ(著)雨沢泰(訳)p.7


という潔い一文から始まるこの「死」にまつわる悲喜交々の物語は、死を避けられないとわかっていながらも何とか先延ばしにしようと願う、死から逃れたいという人間の究極の願いが完璧に叶えられたかに見える状況が、魔法のように叶ってしまったある国の話だ。

みんなが喜びに浸るかと思いきや、事態は不穏な空気に進んでいく。人間がある一定のペースで死に続けることによって成立している現在の社会のバランスが崩れ始め、それは終わりの見えない恐怖へと変わっていく。かつて何とか死なないようにと技術開発につとめ新薬を発明し手術や診療の技術向上をしていたはずの人間は、いつの間にか死なない状態を厄介な状況だと感じるようになるのだ。あの手この手で絶対に死なない状況を何とか打破しようとする人たち。そこに便乗した金儲け手段を捻り出す人たち。そしてさらに物語が進むと、この不思議な誰も死なない現象がどうやって発生したのかの謎が解明され、次なる「死」との関係の段階へと進んでいく。その状況もまた新たに、しかも更なる混乱を引き起こすのだ。

大まかな予想はつくことがあっても、人間はいつ生まれていつ死ぬのか、誰にもわからない。私は最近、49歳で真夜中に心不全を発症し突然死した父のことと、数年前に同じく心不全で突然死してしまった義理の父のことを思い出し、心筋梗塞や狭心症などの体験談を読むことがあったのだが、体験談を書くことができるということは、その書き手は生還しているわけで、つまりは「どうなったらこの世に決定的に帰れなくなったのか」という話は永遠に知ることはできない。何月何日に死にますよとはっきり提示されないからこそ、人間は日常の中で死について忘れていられるのかもしれない。

そのときまで人は、死が避けられず、逃れることはできないものだと意識しながらも、同時に、多くの人びとが死ぬ運命にあるから、自分の順番がやってくるとすれば、ただ本当に不運な一撃なのだと考えて生きてきた。

『だれも死なない日』ジョセ・サラマーゴ(著)雨沢泰(訳)pp.153-154


そう、まさに「不運な一撃」と信じて日々を過ごしているのだ。「死」というのは人間の運命の中で唯一発生することが決まっている絶対的な行事にも関わらず、である。

陛下、われわれがまた死に始めなければ、わが国に未来はありません。

『だれも死なない日』ジョセ・サラマーゴ(著)雨沢泰(訳)p.99


私たちは今、人間が100歳まで生きていてもびくともしないようなシステムの社会では、暮らしていないらしいことは、想像に難くない。

この物語の魅力は、単に「だれも死なない」ことが社会にもたらす様々な影響を多彩に描いていることだけではない。読み進めるうちに、そんな絶対的な死をも揺るがすものは、神話や寓話の世界だけではなく存在するならば、一体それはどんなことなのだろうかと考えさせられる。

昨年末に我が家の愛犬ウィリアムが三途の川の辺りまで行きかけたような時があった。17歳。もうそういうことがあってもおかしくない年齢である。ウィリアムはある日突然、体調が悪くなり、そしてあっという間に呼吸が浅くなり、体温がどんどん低下。手足も胴体も、体の奥の方からズンズンとまさに1秒ごとにウィリアムが腕の中で冷えていったのを覚えている。抱き上げて、私は大泣きした。家にはその時、私とウイリアムしかいなかった。人目を気にする必要もなく、私は意識がどんどん遠のいていくウイリアムを抱きしめながらギャンギャンと鳴いた。すると、プルプルっと今まで見たことがないような痙攣をして、ウイリアムの意識が戻ったのだ。
もはやコントである。はっと目を開いたウイリアムは、巻き戻し再生をするかのように体温がどんどん回復し、こちらの世界に帰ってきた。「危なかったわあ、三途の川っていうの?見ちゃったよねえ」みたいな感じで戻ってきたウイリアムを見て、果たして引き戻して本当に良かったかは本質的にはわからないのだけれど、それでもまだ一緒にいたいという欲望が満たされてしまい、私は安堵してしまった。あの日、私たちは、死を延期した。

花火大会や運動会が「雨天延期」なのか「雨天中止」なのか。そこには当日雨が降ったら開催されない事実は変わらないのだが、圧倒的な違いが存在する。延期は万が一が起きてもまだ可能性が残された希望を含むものであり、中止は後がない。
「死」は本来ならば「生存中止」なのであり、逆らいがたい人生の中断であるはずだ。けれども人は何とかして「中止」ではなく「延期」できないかと考える。では一体延期はいつまで延期されれば良いのだろう。花火大会や運動会ならば1回は延期、それでも雨なら中止するなどのルールが設定されている。7月末に開催予定だった花火大会がその後、仮に延期日が毎回雨になって花火大会は10月にやっと行えました、なんてことにはならない。延期といえども期限付きなのだ。

『だれも死なない日』は、「死にたくない」という人間の欲求について深く考えさせられながらも、小説としても面白く読める素晴らしい作品であった。この本が図書館で、あまり読まれていないまっさらに綺麗な様子で棚に収まっていたのはとても不思議だ。もっと人気で貸出予約がたくさん付いていても良さそうなものなのに。
私は今回ジョゼ・サラマーゴの文体に初めて触れてちょっとハマったかもしれないので、ぜひ違う作品も読んでみたい。


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MariKusu
温かいサポートに感謝いたします。身近な人に「一般的な考えではない」と言われても自分の心を信じられるようになりたくて書き続けている気がします。文章がお互いの前進する勇気になれば嬉しいです。