カゲロウ
今朝玄関を通りかかった時、何かがふわりと天井から落ちてきた。
ああ、虫さんだね、と思い、何かの小さな虫が天井から壁に降りてきたのだろうと、頭の片隅で行動の片手間に思った記憶がある。その後特に気に留めていなかったのだが、
そのふわりと落ちてきた瞬間が彼もしくは彼女の死の瞬間であったことを、夕方になってから知った。
涼しくなってきた時間帯を見計らって買い物に出ようとした私は、玄関のやや出っ張りのある作りの一部に、緑色の虫が倒れているのを見つけた。
すぐに、今朝天井からふわりと落ちてきた子だと気がつく。
あまりにも小さな虫なのだが、最新のiPhone15は素晴らしいカメラ性能なもので、拡大してしっかり撮影に成功した。
1ミリも動くことのない冷たさを感じるこの子は明らかに命が尽きていた。
帰宅後に改めて土に埋葬しようと思い、そっと扉を開け閉めして、先に買い物を済ませてこようと出かけた。
道すがら、あれはカゲロウだったろうかと調べてみれば、おそらくカゲロウであろうと思える情報がいくつか見つかった。
そういえば昨日の夜、キッチンの上の方の壁でふわふわとしていたのを見たような気もする。カゲロウの寿命は1日ほどとも言われているので、この子は我が家の中でこの形になってからの時間を過ごし、生涯を終えたことになるだろうか。
先日は生まれたてと思われるカマキリの赤ちゃんがツルツルのキッチンの棚の上でひっくり返っていた。私に見つかり、思わず死んだふりをしたかのようにも見えたカマキリの赤ちゃんは、無事に外の葉のある場所にお帰りいただいた。
昨日は夫がサーフィンから帰ると、水道のあたりに置いてあったカゴに、これまた生まれたてのカタツムリの赤ちゃんがくっついていたよと見せてくれた。
全てがキラキラして透明なカタツムリの赤ちゃんは、夫の指の上で触覚を全力で伸ばしていた。その後カタツムリの赤ちゃんはお隣の敷地にある満開の紫陽花の葉の木陰あたりにお帰りいただいた。
新しい家にきてから初めての夏がやってくる。
いろんな生き物がたくさんいて、家の中にまで遊びにくる。
ゴキブリが出ても、カマキリが出ても、カゲロウが飛んできても、なるべく殺生をせずに彼らの食べ物がありそうな場所に帰ってもらえるようにしている。我が家にいても、間違えて潰してしまうかもしれないし、水で流してしまうかもしれない。外には緑が溢れていて、明らかに外の方が快適だろう。
ブッダは生き物を踏み潰さないように下を向いて歩いていたという話があるのだが、今までそれが理屈だけでピンと来ていなかった。新しく引っ越したエリアは、緑が満載の山のような場所で、コンクリートの道にも夏が近づくにつれて小さな虫たちが歩き回っている。
土や緑から離れた場所で暮らしていたときは、道に虫が歩いているなんて、よほどの場所でもない限り見かけることはなかった。道に落ちた飴に群がる蟻だとか、そういう特殊な事例でもない限り。
けれど新しい場所では、道を虫が歩いていることが日常なのだ。なるほど、ブッダが生きた時代にはコンクリートなんてなかったわけで、道には当然生き物がいたはずなのだ。これは下を見て歩こうと思うはずだし、それは今の何倍もの注意を払う行動だったことだろうと想像がつく。かの時代に虫を踏まないように下を向いて歩くことと、現代でそれをするのには、当然のことながら大きな違いがあるのだ。
どんな生き物にも等しく生きる権利がある。
どんな生き物にも自由がある。
そのことを、日々考えている。
温かいサポートに感謝いたします。身近な人に「一般的な考えではない」と言われても自分の心を信じられるようになりたくて書き続けている気がします。文章がお互いの前進する勇気になれば嬉しいです。