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外国語の勉強は音声からか文字からか

2024年後半は英語強化月間の半年ということに勝手にしているのだが、特に理由はない。理由はないのだが、そうせねばならないような気がして、気合を入れ直すことにした。
なぜ今、そんな気がしているのかは、来年あたりに「そういうことね」となるんだろうなと思うのだけれど、今はそれをどれだけ考えたって見えてくるわけがないと知っているので、素直にハイソウデスカと勉強を頑張ることにしている。

英語は受験勉強以外でちゃんと勉強した記憶はなく、いよいよやらなくちゃと焦ったのは数年前のこと。今は仲良しのご近所友達になっているアメリカ人の女性に当時個人レッスンをしてもらっていた。実はその時に気がついた、言語に関する自分の重要な癖がある。私は言葉を発する時、全て脳内文字化しているのだ。

英語のレッスン中、英語を英語で考えられるようになるようにという話や、リスニング強化の話をしていた時「だって日本語で話すときには文字を思い浮かべないでしょう?」と先生に言われたのだ。その時は、まあそうなのかなあ、くらいに軽く受け止めていたのだが、帰宅後真剣に考えてみれば、なんと私は日本語を母語として話す時にも脳内に日本語の文字テロップが流れていたのだ。衝撃の事実発覚の瞬間であった。

それがどうして作られた習慣なのかはわからない。しかし考えられる原因はいくつかある。私は小さい頃からピアノを習って、結局大学までピアノ科で受験し、ピアノ科と音楽学で大学院まで学ぶことになる。ピアノは即興演奏ではない場合は既存の曲の楽譜を読んで、鍵盤を叩いていく作業なのだが、最終的には楽譜を見ずに演奏できるようになる状態「暗譜」をする。この時、暗譜した曲を演奏している時、私の脳内には楽譜のコピーが転送されそれが映し出されているのだ。どう説明したら的確に伝わるか苦心するが、肉体の眼球はもちろん鍵盤を見ている。しかし第3の目というか、脳内の目が、楽譜のコピーを見ているのだ。

このピアノの暗譜から生まれた癖なのかもしれないのだが、決定的なのは、働き始めてからの様子。私は長い台本を暗記して人前で喋るような仕事もしていたのだが、この時、暗記した私の第3の目は常に台本のコピーを見ていた。写真のように写し撮られた台本を脳内にぽわんと再生してそれを読んでいるような感覚なのだ。

そのシステムは日常的にしゃべっている時にもさりげなく発動していた。もちろんしゃべっているだけの場合は、元となるコピー原稿がない。ないので、ぼんやりした文字が頭に浮かぶ。そしてそれは電光掲示板のように流れていく。ちょうど新幹線に乗った時に、車両の端の上の方に流れているあの電光掲示板のようなイメージだ。

口調こそやや違うが、文章をこうしてタイピングしている時は、電光掲示板が目の前の画面に文字を消さずに流し続けているような感覚もある。ピアノをしていたせいかタイピングだけは速い。iPadが私のタイピングスピードに追いつけなくなって時々固まることがある程である。

英語のリスニングもスピーキングも、電光掲示板が頭の中に登場している。これはどうやら英語レッスンの流れからすると、あまりよろしくない傾向なのかもしれない。音だけで言語を理解した方が、何かとスムーズなのだろう。けれどもはや母語ですら音だけで言語を認識できない私には、どうにもならない。全く文字が読めない言語でもやってみない限り難しいだろうし、もしもそんな文字が読めない言語に挑戦したところで結局はカタカナ変換してしまうのだろう。カタカナ変換するくらいなら、正しい文字で認識していったほうがマシというものだ。遅々として進まないものの細々と続けているタイ語の学習も、その件があったので最初にグッと我慢をして必死にタイ文字のアルファベットを覚えた。あのアルファベットの歌コーガイソングの前奏が流れると、我が家の犬があからさまに嫌そうな顔をするくらい、コロナ禍に狂ったようにコーガイソングを聴いて歌っていた。最初はコーガイソングを聴いていた時はもちろん歌詞はカタカナ変換されたものが頭の中のテロップに表示されていたが、これではいけないと、少しずつタイ文字で認識するように努力した。

私と同じように、文字が瞬時に脳内テロップ化されるという人は、一体どれくらいいるのだろう。ちなみに台本が写真のように脳内に焼き付けられる人というのは、同業者にはとても多かった。というかそうじゃないとあの仕事は長くは続けられないような代物だった。脳内写真化の精度が高ければ高いほど、ベテランとして仕事を任せられている人が多かったのではないだろうか。私が当時出会った人で最もすごかったのは、どんな長さの台本でも前日にいただければ脳内写真化をして翌日には台本を全く見ずに本番を迎えられるという人だった。あの方は本当にすごかった。私は流石に5日は欲しいところだった。てにをはの接続詞まで一言一句違わずということであれば完璧な脳内写真化するのに7日間くらいは必要だった。

外国語学習の方法について書かれたブログを読んでいると、実にさまざまなアプローチがあることがわかるが、音声からやりましょうと言っているものが多くみられるように思う。
私が個人的に思うのは、まず、自分が母語である日本語をどのように認識して発話したり書いたりしているのかを振り返ることと、どんな内容でもいいので何かを暗記しようとした時にどうやって覚えているのかを思い出すことなように思う。簡単なものでいいので、暗記してみるとわかりやすい。例えば誰かの電話番号。どのように覚えるだろうか。私は電話番号の場合は脳内文字テロップに加えて、電話をかけるときの数字の配列で覚える。真ん中下、一番上、右、その下、左のように、ダイヤルボタンを押す指の動きを一連の流れで頭に入れ、それを脳内テロップ再生された数字と同時に頭の中で再生させるのだ。住所はどうだろう。住所は完全に脳内テロップの文字情報として再現する。そのため私の暗記は、「何文字目はやたら画数の多いぎゅっと詰まった漢字だったな、建物名は五文字のカタカナだったな」というのが一番最初のうる覚えの状態。そこから繰り返すことによってあやふやだった部分の文字がくっきりと浮かび上がるようになっていく。

ここまで書いて気がついたのだが、文字をタイピングしている時は脳内に音声、そして指の動きが再生されているようだ。例えば「さしすせそ」とタイピングしたいとなると、最初の「さ」は左の薬指、次が左の小指を使う。ピアノを弾くときに、例えば左手で「レ」を薬指で弾いた後に、左隣の「ド」を小指で弾くという動作を覚えている感覚と、文字の「さ」のタイピングはとても似ている。つまり結局は三つ子の魂なんとやらということなのだろうか。

言語を音声だけで認識することが不得手な私は、もしかしたら外国語習得には不利なのかもしれない。それでも文字を読むことに関してはストレスを比較的感じづらいかもしれないので、そこは得意を伸ばす考え方に切り替えて、特徴を活かしてやってみるしかない。
記憶が文字と強く結びついている私は、ディクテーションと呼ばれる音声を文字に書き起こす勉強法や、長文読解のトレーニングとして英語の本を積極的に読んでみるなどを、現在強化中である。ディクテーションはリスニングのトレーニングにもなるし、最近気が付いたのは知らない単語はやっぱり聴き取りづらいものなんだなということ。つまり知っている単語が増えていけばリスニングも上達していくんだなという話。初めてディクテーションをやり始めた時は、ほんの3分程度を聴き取って書いていくのに、もう何十回と動画を再生しては戻して止めてと繰り返して聴かないといけなかったし、本当にこれできるようになるのかなと不安しかなかったけれど、違う勉強法も混ぜながら気長に時々続けてきたら、いつの間にか始めた頃よりは随分ディクテーションの速度が上がったことに気がついた。本当に気がつかないうちに、いつの間にか。
語学学習は、そういう「いつの間にか」の進歩が多い。ピアノみたいに、弾きづらくてできなかったフレーズが100回繰り返し練習したら明らかにミスタッチなく弾けるようになった、みたいなわかりやすい進化を認識するのが難しい。「いつの間にか」の進歩を経験したことがないと、やっぱりどうしたってモチベーションが下がる。でも、魔法のように本当に「いつの間にか」が来る時があるのだ。だから今日も、やるしかない。こんな勉強したって意味ないかもなとか、全然進歩していないじゃないか、と思っても、実はそれを続けていったらある時「いつの間にか」がやってくるのだ。

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