エコバックの捨て時
白いコットンバックを買い物時に愛用しているのだが、その中でも使用頻度の高い厚手のキャンバス生地のカバンがついに限界を迎えた。実は以前からちょっと怪しいなと思っていたのだが、綺麗に洗濯してアイロンをかけたりしながら、誤魔化し誤魔化しで使ってきた。しかし部屋の片付けをしながら、今一度使っているコットンバックたちを並べてみて、その中のいくつかは、もうお役御免でいいのではないかと思った。穴こそ空いてはいないものの、底面の角が擦り切れており、持ち手の部分もかなり擦れが目立ってきていた。汚れは洗えば落ちるものの、この生地の摩耗による擦り切れは、当て布をして補強でもしない限りどうにもならない。よく見ればどうしても落ち切らない汚れのシミも目立ち始めていた。機能としてはエコバックとしてまだ使えないこともないのだが、寿命ということで手放そうと思ったきっかけの一つに、スーパーのレジでの出来事があった。たまに立ち寄るスーパーのレジには、会計作業をしてくれる店員さんとは別に、エコバックを預かってどんどん袋詰めしてくれる店員さんがいる。「エコバックお預かりしましょうか」と言って、手際よくこちらが持参した袋に商品を入れてくれる。その時に思ったのだ。自分で使っている分には気にならなかったが、店員さんに渡して袋詰めしてもらうときに、このバックでは、なんだか汚らしくて申し訳ないなと。もちろん綺麗に洗濯はしているし、店員さんも嫌な顔はしないけれど、一瞬コットンバックを手渡すのを躊躇しそうになった自分がいた。
毎日使っていると、汚れや生地の傷みに気が付きづらくなる。けれどたまに、こうして他者の目線を入れることによって、気がつくことができる。エコバックにわかりやすく穴が空いてしまったり、カバンとしての機能を損なって仕舞えば、気持ちよく捨てられるのかもしれないが、そうではないけれど流石に寿命かなと判断するタイミングというのは難しい。人によっても差があるだろうし、使い方、使用する場面によっても違うのかもしれない。今日私の中にできた一つの基準は『「お預かりします」と言われて差し出すのを躊躇うようなカバンは、寿命だと判断しよう』というものだった。
自分用なら多少難があってもいいのか。それもまた考え方次第だとは思う。けれど最近は、自分のこともちゃんと大切に扱おうと思っているので、ちょっと基準も変えていかねばならないかなとも考えている。誰かにさっと手渡せないようなカバンを、自分は使っている。それは自分を全く大切にしていない状態なのではないか。何かを大切に扱うことは、自分を大切に扱い、つまりは同じように社会からも大切に扱われるための基本の法則のようにも思う。物を丁寧に綺麗に扱う人は、多分物からも大切に接してもらえる。つまり自分の行動が、社会からも同じように返ってくるのではないだろうか。大切にされたかったら、まずは自分が何かを大切に扱わねばならない。そう考えると、擦り切れても酷使するような使い方をしていると、それは一見物を大切にしてエコな暮らしのように見えるけれど、実は「擦り切れて限界なのにまだ酷使され続け消耗して疲れ果てる人生」の象徴のように思えてくる。疲れ果てたくなければ、ものを疲れ果てさせてはいけない。
これはあくまで、私が直感的に思っていることなので、根拠はない。根拠はないけれど、そう感じる場面が最近多い。