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「自分の国に誇りを持てなかった」のは、自虐史のせい?

あるライターの方が、「日本史の教え方のせいで日本が悪くて駄目な国」、「自分の国に誇りを持てなかった」だから「自国に誇りを持てるような教え方をするべき」というようなツイートをされていました。

おそらくこういう意見を持っている人は少なからずいるのではないでしょうか。

とかく歴史修正主義者は、こういう視点から日本の自虐史を教えず、美談を中心に教科書に書くべきだということを言っています。

けれど、「自国に誇りを持つということ」はそんなことで揺らぐものなのかなあと思うのですよね。

私は日本に対しては、駄目なところは駄目だと思っているし、色々な面で遅れているなあとか、もう少しこうあったらいいのにと思うし、時々辛辣に現状を批判することもあります。

でも、だからと言って、「日本人として誇りを持てない」とはなりません。

そもそも学校の先生がいうことなんて、100%受け入れるわけではないし、単なる通過点にすぎないと思っているんですよね。

仮に教え方が最悪な先生だとしても、そんな最悪な先生の教え方だけで、簡単に日本人として誇りを持てなくなるくらい「誇り」ってそんなに「軽いもの」なのかなあと思います。

もちろん思春期の頃は、自分のアイデンティを自覚し始める時期なので、ある点までは仕方ないと思いますが、大人になってもそういう意識を持ち続けているとすれば、それは自分自身の問題じゃないですかね?

私は、この「誇りを持てなくなる」というのは、戦後の教育のせいではなく、日本人特有の性質のせいではないか?と考えています。

海外の人たちと比べると、そもそも日本人は習慣的に、自分という「個」をいつも他者と比べて自己認識をするという人が多いんじゃないかな?と感じるんですよね。

だから自分の意見というものもあまりない人も多いんですよ。

そのことが「自信のなさ」を生み出し、「誇り」をなくすんじゃないか?と思いますね。

その反面、他者と比べて自己認識をするものだから、時には「優越感」を持つこともあるのでしょう。

そして、この「優越感」というは厄介なものなんですよね。
「優越感」が他者を下に見て、差別意識を生み出すことだってあるんですよね。

だからこそ、この「優越感」を持てない時、「誇りを持てない」というように聞こえるんですよね。

私はいつも言っていますが、国家というものは親みたいなものだと思っています。

私は自分の母親の愚痴やら悪口を言ってもいいけど、他人には言われたくないという感じです。

歴史については、そういう過去があって今があるとしか思いません。

親にも過去があって、もし親がおこした失敗があったとしたら、その失敗を見て、自分はそうならないようにしようと言う感じです。

寧ろ、過去の失敗を知ることこそ、更に良い未来を築くために考えるヒントになります。
こういう検証はたとえ辛い過去だったとしても、なかったことにするべきではないし、直視するべきなんですよね。
直視してこそ初めて前に進めるものです。

だから、言いたいんですよね。

今や自分でも学べるものが沢山ある時代にもかかわらず、「学校教育のせいで自国に誇りを持てなくなった」なんていつまでも言うなって

人のせいにする前に、しっかりと誇りを持てるように生きていけば良いことなんですよ。

もし、私が国という親だったら、こういうと思います。

「過去にこういうことがあった。こういうことが失敗だった。だから同じ失敗をしないように気をつけろ。でも、あなたは紛れもなくこの国の人間です。だから自分を大切にして、未来の子供にとってより良い行動をしてください。」




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樺島万里子@海外ニュース翻訳情報局
海外ニュース翻訳情報局の活動資金にさせていただきます。 当サイトでは、他で発信されていない海外の公式発表を中心に翻訳する活動をボランティアで行っています。この活動をこれからも健全に続けていけるよう、どうぞ皆様の温かいご支援をお願いいたします。_(._.)_