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私が家族から得たかったもの

私は残念ながら家族に恵まれなかった。

家族から得たかったもの…
というか家族から得られると期待していたものが得られなかったことによって、本当に長い間「私の幸せ探しの旅」が続きました。

普通の人が当たり前に得ているものが、なぜ自分は得られないんだろう。
(普通の人というのは、私の目に見えている人に限られる。)

子供の頃から「普通の幸せが欲しいだけなのに。」といつも思っていました。


身体がhelpを出していた

物心ついた頃から両親は不仲でした。
以下の記事でも書いたのですが、私はとても感受性が強く、見えたく無いものまで見えてしまう性質を持っています。
人間関係構築と人との距離感

家族関係に気を使いすぎて、家族がうまく回るように気を回しすぎて、私の心は本当に疲弊していました。

お腹が空いてもいないのにずっと食べている子供でした。
食べている時は何も考えなくて良いので、心が休まったのです。
当然肥満児でした。
食べすぎることに対して注意はされたけど、その原因まで考える大人はいませんでした。
むしろ、たくさん食べる方が褒められる時代だったので、大人に好かれるために食べている節もありました。


6歳くらいの頃は、ずっと手洗いをしていました。
寝ても覚めても手が汚いような気がして、夜中にムクっと起きては手を洗うこともありました。
手は夏でもあか切れができて、血が滲んでいました。
母は「水遊びはやめなさい」と言っていました。

どう見ても異常なこの行動を異常だと認識する余裕は無い人でした。
専業主婦でしたが、いわゆる家事は苦手で、細かいところに気が回るタイプではありませんでした。
父との不仲もこういったところから生まれている気がします。

父は繊細で几帳面な人です。
どちらかというと、気質的には私に似ています。
私は父とも母とも親子の絆形成はできずに育っていますが、時を経て、父と絆形成ができ始めたのは、父のことが少しは理解できるからなのかと推測しています。

育っていく過程で、本当に不可解な体調不良はたくさんありました。
風邪でもなんでも無いのに、40℃程度の発熱が定期的にありました。
謎の血尿(ほぼ血液)で入院していた時期もありました。

アレルギー体質でいろいろなものにアレルギー反応を示していましたが、大人になってアレルギー検査をすると、ダニとハウスダストだけでした。

このように私の身体は数々のサインを出していたのに、キャッチする人がいなかったのです。

思春期の頃は摂食障害でした。
中学1年生のころに15kg以上痩せ、生理も止まり、髪も抜けました。
体力もなく、体調も不良。

周りからチヤホヤされるようになったり、親戚からもきれいになったと褒められ、担任の先生からも「痩せて本当によかったね」と言われて、「これでよかったんだ」と思いました。

この先この摂食障害と20年以上付き合っていくことになるのです。
思春期の頃は特に拒食と過食を繰り返して、心のバランスもどんどん崩れていきました。

母は食べすぎたり食べなかったことだけに注目して、そこを責めました。
しかしこれは「心の問題」だったのです。
ずっと近くでその様子をみていたにも関わらず、向き合ってもらえなかったことが、母への不信感を増幅させました。
しかしこれは母が悪いというよりは、母のもともと持っているキャパシティが小さかったり、人間としての成熟度が、私の成長に追いついていなかったからだと感じています。

外側から見た私の世界

ネグレクトや、貧困、暴力などのわかりやすい機能不全家族ではなかったので、羨ましがられることが多かったです。

たくさん習い事をして、進学校に通い、浪人して大学に行き、車も買い与えてもらい、一人暮らしもさせてもらっていた。

「悩みなんてあるの?」と聞かれることもあった。


ひとたび自分の家庭の話をすると、「どこにでもあるんじゃ無い?でも大丈夫だよ。家族だもん。血が繋がってるんだから絶対大丈夫。」

こんな台詞を何十回聞いたか。
だいたい円満な家庭で大切に育てられた人に言われます。
それを言われる度に自分の心がとても傷づいたので、もう自分のことを話さなくなりました。

家族だから大丈夫なんてことはありません。
結果的に、何年もかかる裁判を経て両親は離婚し、母には私も父も絶縁されています。私が父と連絡をとっていたので、裏切られたと母は感じたようです。妹は母とべったりなので母と暮らしています。(結婚してすぐ離婚して母のもとに戻ったと聞いています。)

一緒にいた頃の母は私をコントロールしようとしていましたが、それが叶わなくなると、私を突き放して妹と共依存関係になった(と予想されます。)のです。

家庭を蔑ろにし、母に暴言を吐く父のことを恨んでいましたが、実は父の人格も外的ストレスで崩壊していたのだと、後から気づきました。

家族のことに関しては、ここには書けないこともたくさんありますが、外から私たちのことを見て「大丈夫」と言っていた人々には想像もできなかったでしょう。


愛情がないというコンプレックス

全く愛情を受けられていなかったわけではないと思います。
両親それぞれ、彼らなりの愛情を与えてくれていたのだと思います。

それは私が友達と比較したり、親戚と比較した時に全く異なるものであったために、私は自分の両親からの愛情を、愛情だと理解できなかったのだと思います。

愛情を受けていないことは私のコンプレックスだったので、いつしか「愛情を知っている人に負けたくない。」という間違ったライバル意識が芽生えました。

幸せに育った人よりも、絶対成功してやる。
(今思えば何を以て成功だったかは曖昧だったと思います。)

もちろん「負けたくない」「見返したい」という気持ちが原動力になる時もあります。しかしどこに向かっているかわからない目標は、突然虚無感や失望感をうむ時もあります。そして、自分が設定したゴールが達成できないと、自分自身を否定して「自尊心」を下げることになっていました。

友達の結婚式が辛い。
それは結婚式に行くと、友達がどれだけ家族に愛されて育ったかを見ることになるから…
結婚式で流れる生い立ちのビデオに涙していたのは、感動よりも悲しみでした。

大切な友達をお祝いしたい気持ちがあるのに、こんなに悲しい気持ちになって、素直に「おめでとう」の気持ちでいられないこと。
それが一番辛かったです。
人の幸せを応援したり祝ったりするためには、まずは自分が幸せであることが必要なんだと良くわかりました。


私が家族から得たかったもの

私が家族から得たかったものは、無償の愛と心が安全な場所です。

自分の本音や我が儘を理解してくれる人がいなかった。
無償の愛を感じさせてくれる人がいなかった。


居場所をずっと探していました。
私が「ありのまま」でいても、愛される場所を。
無邪気に発言しても安全な場所。

条件付きの愛しかないと思っていました。
可愛いとか、仕事ができるとか、誰かにの役に立たないと愛されないと思っていました。
だから、最初のキャリアは看護師を選びました。

自分のありのままを出して、本音ではなしても愛で包んでくれる人。
それが夫でした。

子供の時にできなかった、「甘える」や「我が儘」を全開にしても笑って包み込んでくれます。
どんな私を見せても絶対的な愛を与えてくれます。


「私の幸せ探しの旅」は本当に長く険しかったのですが、自分なりの答えが見つかりました。
私は自分の幸せを見つけることができたと思います。

人生はここからがスタートです。
幸せがベースになって、ここからさらにチャレンジや経験をもって「充実した、豊かな人生」に変えていくのです。

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