かれのはなし
あるひ、かれは
くじけた
だれもかれのはなしを聞いていなかった
海の向こうの国の話はするが
テーブルのこちらにいるかれのはなしには
気を留めない
グラスに入った水のように
相槌打って飲み干す
そのころは
みな、なにかに怒っており
みな、その原因がこの世界のどこかにあると探し回っており
みな、日々を
グラスに入った水のように思っていた
かれのはなしは
道端にだれかが重ねた石の塔のような
アメンボの作る水面の輪っかのような
かたつむりの殻のうずまきのような
ほとんど音なく降る雨のような
瞳に映る夕闇のような
赤ん坊のうぶ毛のような
そういうものだった
つまり
そこいらじゅうを探せば
誰の許しもいらずに
見つけることのできるようなもの
ところがあるひ
グラスは割れてしまった
水はこぼれてしまった
そんなときに
かれは覚えていた
いくつもの
外国語の挨拶を
海水のしょっぱいのを
ネジバナの螺旋を
降りはじめたばかりの雨の匂いを
寒くてまるくあかく染まった頬を
木々がつくる陰影を
愛らしさを、
愛らしさを
みな
そうだった
そうだった
と口を揃えて言うのだが
そのうちまた忘れてしまうのだった
透明の透明のなかで
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