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自分の「好き」がわからなかったのは、機能不全家族のせいだった

こんにちは。フランス南西在住のChachaです。まもなく3歳を迎える娘とフランス人夫の3人暮らしです。

30代後半になった今でこそ、「好きなもの」とそうでないものの区別がはっきりしている私ですが、20代後半になるまで自分の「好き」がわからず悩むことがありました。そしてそれを「自分の性格の問題」として捉えてしまっていたため、自分のことを責めてばかりで生きづらさに苦しんでいたように思います。

しかし、この「生きづらさを解決したい」と、20代前半からさまざまなカウンセリングやセラピーを受けたり、独学を経たことで気がついたのは、自分の「好き」がわからないのは決して私の性格の問題なのではなかったということです。ではその原因はいったい何だったかというと、「機能不全家族」という環境に生まれ育ち、「アダルトチルドレン」と化してしまったことなのでした。

機能不全家族に育つと、なぜ「好き」や自分らしさがわからなくなるのか

機能不全家族、毒親、アダルトチルドレン、インナーチャイルド。こういった言葉もだいぶ広く認知されるようになってきたため、ここで私が説明するには及ばないでしょう。ここではまず、機能不全家族に育つとなぜ「好き」がわからなくなってしまうのか?をまとめていきますね。

まず、私が生まれ育った家庭環境は以下のようなものでした。両親の離婚や誰かの死別、また経済的困窮や身体的虐待などはなく、外から見れば「一般的な家庭」に映ったものと思います。(今となれば、こういった家庭こそ厄介な「機能不全家族」だなと感じますが。)

⚫︎大人たち(特に母親)の愚痴や感情の吐き出し口だった
⚫︎言動をコントロールされる(「おばあちゃんとは話してはだめよ」「女の子だからこのお手伝いをしなさい」などと言われる。言いつけの通りに動かなければ、ひどく責められ叱られる。)
⚫︎干渉され、プライバシーが守られない(部屋の引き出しをすべて見られる、部屋は覗き見される、電話は盗み聞きされるなど干渉される)
⚫︎信用して話をできる大人がおらず、コミュニケーションの取り方がわからない
⚫︎気持ちを抑圧する(悲しい寂しいと訴えても、誰にも寄り添ってもらえない。むしろ「うるさい」と放っておかれる)
⚫︎家庭が特殊な場所がゆえ「周囲に変だと思われたくない」と友達にうそをつく

この結果、こどもは自分の気持ちの処理や表現の仕方を学べないまま育ちます。意見や言動をコントロールされるため、「自分はこれが好き」「私はこう思う」という意見や好みを認めてもらうことができません。それよりも、「この人にとっては、こう答えるのが正解かな?」と他人の正解を探し求めます。そうすることで自分の身の安全が保たれるからです。つまり、自分軸ではなく他人軸が大きく育ってしまうことになるのです。

表現の自由が保障されていないばかりか、家の中で心から「安心安全」と感じられる場所がないため、自分で自分の身を守ろうと常に神経の緊張状態が続きます。
いわば、いつどんな敵が襲ってくるかもわからないような洞窟の中に過ごしているのと同じ状態にあるのです。このような心理的安全性の保障がない中で、「自分がしたいこと」や「好きなもの」などに意識を向ける余裕はありませんよね。

「好き」がわからず困ったこと

私は、大学進学とともに実家を離れるまで18年間、上記のような環境に身を置いていました。思春期に入り、いよいよ「我が家の様子はおかしいぞ、恥ずかしい」と気がつき始めましたが、自分の好き嫌いがわからないことで生きづらさを感じ始めたのは、大学生になり一人暮らしを始めた頃でした。

買うものひとつ、自分で決められない

一人暮らしを始めると、当然ですが日用品や食材なども自分で購入するようになります。購入をするということは、自分で選択をしなければいけません。例えばAという洗剤とBという洗剤が売っていれば、金額や評判に加え、香りやパッケージのデザインなど自分の好みが加わり「どちらを買うか?」を選択することになりますよね。食事、インテリア、洋服、調味料一つとっても同じです。

ものの選択というのは経験値の差もありますから、自活をし始めた人にとってこれは共通の悩みでは?と思われる方もいらっしゃるかもしれません。しかし私にとってはこの「たとえ洗剤一つを買うということ」自体もとてもとても難しいタスクのように感じられ、それは経験を重ねど消えるものではありませんでした。「みんなはどちらを買うんだろう?そこにはどんな理由があるんだろう?」と、2種類の洗剤に向き合っているのは私自身にも関わらず、間に「他人軸」が介入してしまうのです。もはや、他人軸が介入しない状況というものがわからず、自分のものさしが見えないのです。

自分軸が見えずして「自分らしさ」はわからない

「これが欲しい、これが好き」と判断できない。これは毎日の生活をとても苦しいものにしてしまいます。「あの子がこんな靴を履いているから、私も似たようなデザインを買ってみよう」と、一つのことを決めるにも実にさまざまな思考が頭を巡ります。物質的なことに限らず、友達を観察し、「こういう状況でみんな面白いと感じるんだ」「こう言われたらこう返答すればいいのか」と言動も真似てみますが、自分が自分自身でいないため、なんとなく周囲から浮いてしまいます。そりゃぁそうですよね。自分の好みもわからず他人軸でものを考えている私の「私らしさ=個性」など、周りの人にとってはもっともっと不明で、そこには関係性が生まれません。

孤独を感じることで、さらに「なぜ私はこうなんだろう」と自己嫌悪が深まり、深い「生きづらさ」のループにハマり込んでいってしまうのです。

どうやって自分の「好き」を発掘していったか

それでは、こんなふうに他人軸に埋もれてしまった場所から、自分の「好き」を少しずつでも発掘し、自分軸を育てていくにはどうすればよいのでしょう。

「なんとなく気になる」はすべて試す

私が自分の経験を振り返って思う最も有効なことは、「なんとなく気になる」を
とりあえずすべて試してみるということ
です。
と、同じような生きづらさの渦中にあるかたにとっては、こんなふうに一言で書くほど簡単なことではないと感じられるかもしれません。しかしほんの些細なことでいいのです。例えば、

⚫︎「こんな色の洋服が気になる」→着たことがない色でも、勇気を出して一枚買ってみる
⚫︎「カフェで本を読んでみたい」→今すぐにカフェに足を運んでみる(こう感じるとき、実際に「本を読む読まない」は関係ないのです)
⚫︎「最近海の写真に目を止めてしまう」→海にいくのが難しければ、海の写真をたくさん集めて眺めてみる

私は生きづらさを感じ始めた大学時代、「すてきだな」「ああなりたいな」と感じた友人を横目に、上記のような些細な選択や行動を真似してみることから始めました。また、学生とあり幸い時間はあったので、まずは近場で日帰り旅行、美術館や映画へ足を運んでみる、夜通しで海外ドラマを見る、小説を読み耽るといった経験を繰り返し、初めて「自分が没頭する」「このアートが好きかも」「この小説の言葉使いが素敵」という感覚をもてるようになりました。

こうして一歩を踏み出し、「これは好きかも」「これは嫌かも」という感覚を丁寧に観察してみると、少しずつ自分の好みが輪郭を持って見えるようになってきます。もちろんあちらへこちらへぶれながら、徐々に徐々にではありますが。

「生きづらさからの脱却」は「本当の自分に重なること」

その後、私は一人でアルバイトをしながら海外生活をしてみたり、あらゆる国をめぐってみたり。仕事も気になるものは片っ端から挑戦してみました。行く場所行く場所であらゆるタイプの人に出会いますし、あらゆる好みに出会います。そんな中で、基本的にはすでに書いたような作業を(幅は小さくはなっていきましたが)繰り返し、30代を迎えるころにようやく「これが私らしさなのかも」と、私が私でいることに居心地の良さを感じられるようになりました。私が認識する私が、心の奥底にいる自分の影と重なること、それが「生きづらさからの脱却」なのです。生きづらさを感じていた頃は、この本当の影を覆う何重もの層があって、自分でも正体がわからなかったという感覚でした。これを剥ぎ取っていくためには、今回の記事の要にある「好き」かどうかという感覚が、まずはとても大切なのだと思います。

この記事が、今「自分らしさ」に迷い、生きづらさを感じられているどなたかの助けになれば幸いです。

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