「愛に敵なし」(『太陽の法』ポイント解説⑮)
この記事に目を通して下さり、本当にありがとうございます!
私の記事では、大川隆法先生の累計3500回の法話、3100冊以上の著書から、おすすめポイントを紹介しています。
現在、大川隆法著「太陽の法」のポイント解説に挑戦しています。
2024年、「何か一冊オススメ書籍は?」と訊かれたら、間違いなく『太陽の法』をおすすめさせていただきたいです。
「太陽の法」
『太陽の法』は幸福の科学の基本書かつ最重要経典です。
大川隆法先生は、1986年7月に大手総合商社を退社・独立後、わずか19日間で、自動書記にて、この『太陽の法』を書き上げたと言われています。
(自動書記とは、天上界の啓示を受けて、ひとりでに文章を綴っていくような状態です。)
つまり、この『太陽の法』こそが、華々しい経歴を誇ってきた大川隆法先生が、学歴や出世街道など、約束されたエリートとしての未来全てを投げ捨ててでも書きたかった、真理の一書、ということになります。
以後、『太陽の法』は当会の根本経典として、30年以上もの間、人々の心を潤し続け、世界23言語で発刊の大ベストセラーとなっています!
人類の永遠の疑問への答えを明確に説き明かした「太陽の法」。
その魅力の一端なりとも、このnoteにてご紹介できれば、この上なく光栄です。
この一冊と出逢うために、あなたは生まれてきた―。
その言葉の意味を噛みしめながら、このnoteで出会ったすべての皆さまに、愛をこめて、『太陽の法』との出会いを贈ります。
第12回目となる今回は、『太陽の法』第3章「愛の大河」から、第5節「愛に敵なし」をご紹介します。
今回は、第五節をそのまま味わっていただきたく、まず全文を掲載させていただきます。
どうぞよろしくお願い致します。
「愛に敵なし」
愛は最大の力であり、愛には敵なしなのです。
そこで、私は、愛が無敵であることについてお話したいと思います。
人間は、生きてゆく過程において、さまざまな困難にぶつかります。
つまり、そうしたなかで、魂の修行をしていくわけです。
これは、あらかじめ計画されていることです。
困難とは、どういうものでしょうか。
すなわち、病気があり、貧困があり、挫折がある。
失恋があり、事業の失敗があり、友人の離反があり、愛する者との別離がある。
きらいな人との出会いもあります。
さらには、年を取り、醜くなり、体が不自由となり、やがては死んでゆくのです。
こうした現象を現象とだけ見れば、人生とは、苦悩と悲しみに満ち満ちているものかもしれません。
しかし、苦悩には苦悩の意味があり、悲しみには悲しみの意味があるのです。
つまり、苦悩や悲しみがあるということは、私たち人間に、選択をせまっているのです。
選択とは、なにか。
つまり、私たちのひとりひとりが、与える側の人生を選ぶか、与えられる側の人生を選ぶか。
その選択です。
愛の本質とは、やはり与えることなのです。
愛とは、神が人間に与えてくださったものを、自分ひとりのものとだけしておかずに、人にわけ与えるということなのです。
神の愛は無限です。
ですから、私たち人間が、その愛をいくら与えても与えても、つきることはありません。
神は、私たちに、愛を供給してくださっているのです。
愛の本質とは、まず、与えることなのです。
この点を、よく理解していただきたいと思います。
愛に苦しむ人々よ、よく聞きなさい。
なぜあなたがたは、苦しむのですか。
なぜ愛において苦しむのですか。
愛を与えることによって苦しむのですか。
みかえりを求めてはいけません。
みかえりを求めることは、ほんとうの愛ではありません。
ほんとうの愛とは、与える愛です。
与える愛とは、すなわち無償の愛です。
あなたが与える愛は、本来、あなたのものではないのです。
あなたの愛は、神から与えられた愛なのです。
その愛を神にかえしてゆくために、私たちは、ほかの人々を愛すべきなのです。
苦しみの原因は、自分はほかの人を愛しているのに、ほかの人は自分を愛してくれないと思っているところにあるのです。
いえ、ほかの人が自分を愛してくれないのではありません。
自分が期待しているほどには、ほかの人が自分を愛してくれないと思うからこそ、愛ということを機縁として、人間はひとつの苦悩におちいっていくのです。
愛のみかえりは、ほかの人間からではなく、神からくるのです。
神からくるみかえりとは、なんでしょう。
それは、すなわち、愛を与えれば与えるほどに、あなた自身が神近き人間となってゆくということです。
それが、神のみかえりなのです。
神の本質を見てごらんなさい。
神は、燦々とふりそそぐ太陽の光のごとく、無所得のままに、無限の愛と慈悲を万物に与えているのではありませんか。
あなたたち、ひとりひとりの生命でさえも、神に対して、一文の支払いをすることなく与えられたエネルギーではありませんか。
さすればまず、与えることからはじめてごらんなさい。
与えるとは、どうすればひとりでも多くの人々がしあわせに生きられるかを考えながら、日々生きるということです。
与えるとは、ひとりでも多くの迷える人々の心に、愛の光を投げかけてゆくということです。
また、ひとりでも多くの人々を、困難と挫折の人生から立ち直らせ、知恵と勇気の日々を送らせるかということです。
知恵をもって、与えなさい。
物質を与えることだけが、与えることではありません。
慈悲魔になることだけが、与えることではないのです。
真に与えるとは、真に人を生かす道であり、真に人を生かすためには、知恵がなければならないのです。
だからこそ、私たちは、知恵をもって、勇気をもって、与える人生、すなわち、無償の愛を人々に与える人生を歩んでゆこうではありませんか。
愛に敵はありません。
愛は無敵です。
なぜならば、ほんとうの愛とは、与える愛であり、無償の愛であり、あらがうことを許さない無限の力だからです。
愛は大河です。無限の上流より、無限の下流へと流れゆく大河です。
そして、いかなる者も、この大河にさからうことはできないのです。
すべてを与え、すべてを押し流してゆく力だからこそ、永遠に愛にあらがいつづける悪など、この世には存在しないのです。
〈感想・気づき〉
「愛に敵なし」。
その力強い言葉が、今日も私の心を震わせ、涙します。
生きてゆく過程でぶつかるすべての苦難・困難は、魂の修行のために存在しているものである。
苦悩や悲しみがあると言うことは、私たちに人生の「選択」を迫っているということ。
「選択」とは、すなわち、「人に与える側の人生」を選ぶか、「与えられる側の人生」を選ぶか。
愛の本質とは与えること。
そうであるならば、神様が私たちに愛を与えて下さったように、私たちも愛を与える側の人生を歩むことしか、選択肢にはないように感じます。
愛は、ただ与えればいい。
愛を得ようとするから、苦しい。
本当にその通りだと思います。
私たちの苦しみの原因のほとんどは、自分が他の人に愛されない、と思っているところなのだけど、それは人から奪いとる愛であり、本物の愛ではないから苦しいのでしょう。
確かに、誰かを愛していたとして、当然その方から自分も愛してほしいと思うのが人間というもの。
でも、本当に心の底から愛していたら、見返りなんて求めずに、無償の愛に生きることができるはずなんです。
親が子供を無条件で愛するように。
あの太陽が、見返りを求めず、私たちを照らし続けているように。
常に見返りのない愛に生きられるか、私自身も、試されていると思っています。
それでも、私は今、生かされているだけで、神から十分愛されていると感じています。
どうしようもないダメな自分だったとしても、見捨てずに生かしてくださっている。
存在を消してしまうことだってできるはずなのに、そんなことはせず、私たちの成長の時を待ってくださっている。
それこそが、神の愛の証明なのだと思っています。
「太陽の法」では、神様から愛されていることが実感できたなら、
「まず、与えることからはじめてごらんなさい」と説かれています。
「与える愛」とは、
どうすれば多くの人々が幸せに生きられるかを考えて、日々を生きてゆくこと。
ただいたずらに優しくするだけでなく、時には知恵と勇気でもって導き、真に人を生かす道を考えること。
愛を与えることの幸福に目覚めた時、
私たちの愛の力は無限となり、
愛の大河となって、
あらゆる悪を押し流してゆく力になっていくのだと思います。
私も愛を与える幸福の中に生き、愛の大河となって、皆さんを包んでいきたいです。
あらゆる悪を押し流し、皆さんの大切な心をお守りしたいです。
生命あるかぎり、この活動を続けていければ幸せです。
最後までご覧くださり、誠にありがとうございました。
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